深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

電報、レタックス

郵便局へ行って、たまたまレタックスに関する掲載を見た。今年の春に急に値上げして、また突然事実上の値下げをしたらしい。
レタックス、懐かしいなあ。20年近く前、大学の合唱系サークルで渉外担当だった私は、交流のある同じ大学や他大の合唱系サークルの演奏会があるたびに、祝電を送るのが仕事の一つだった。今と違ってインターネットも一般人が使える携帯電話もない時代。毎回いちいち115に電話をかけるのが面倒だったし、レタックスだと文面画像をそのまま送るため、漢字交じりの文章が送れて字数制限もなかったこと、長い文章だとレタックスのほうがやや安上がりだったのとで、いつもレタックスにお世話になっていた。


最近の電報は申し込みも簡単になった。Webから簡単に申し込みできるのがいい。今は文例どおりなら漢字交じり文で送れるし(オリジナル文でも漢字が使えるようになったのだろうか。そこはよく知らない)、台紙もいろいろ可愛いのを選べるし、ぬいぐるみつきなどもある*1。単なる祝電とはいえ、選ぶだけで楽しい。
こうなってしまうと、レタックスには勝ち目というかメリットが薄い印象になってしまう。
あの頃は、レタックスは画期的な気がした。手書きのものやイラストを直接電報のように会場宛てに送れるなんてすごい、と思った。今では、そういうものを送りたければ、メール添付のほうが断然早くて綺麗だし。


なんてことを考えていたら、今度は、祝電って必要なのかな? とふと思った。
電報自体については、緊急連絡用の電報は別として、それから弔電はとりあえず意味があるとして。葬儀の現場ではメールを読んだり電話をとったりするほうが面倒なくらいてんてこ舞いするものだし。
祝電に関しては、どうなんだろう。慶事は一部を除けばかなり前から日時がはっきりしているものがほとんどで、やろうと思えばちょっとした贈り物の手配などは十分可能だし、祝電を送ろうと思うくらいの相手なら、事前事後に本人たちに直接お祝いを伝える機会はたいていあるし。関係団体(職場など)が祝電を送るケースはよくあるが、こういう明らかに儀礼であるものは、本人たちにとっては別にどっちでもいいのが正直なところだろう。実際、祝電の披露は、だいたい数通読まれたあとは適当に省略されてしまうし、披露宴などだと本人たちがお色直しでいない時にされるもので(もちろん本人たちはあとで1通ずつ読むが)、会場にいる客らは「よーし、いまのうちに飲み食いするぞ」と司会の話なぞ聞いてないものなのである。
「とりあえずお祝いの気持ちはもってますからね」というのが形に残るのが重要なのだろうか。親交のある人から来た祝電はそりゃ嬉しいが、誰それからは祝電来なかったね、祝ってくれないんだね、なんてことは思わないものだと思うけど。


などと思いながらも、機会があればやっぱり祝電を送ろうと思ってるし、祝電を送る時はよーし台紙とか文面とかじっくり考えるぞー、と思う小心者の凡人な私なのであった。
必要ないのかもな、と思いつつ、流されることを楽しむのもまた良し。

*1:結婚式の時にあちこちの方面からいただきました。今でも娘たちのおもちゃ箱で活躍しております。どうもありがとうございました。って誰に言っているんだ。