属性を嫌うのは結局楽な道なのだろう
属性を嫌ったり憎んだりするのは、実は楽なんだ。その相手本人と直接対峙しなくて済むから。
この歳になると、ひと本人と対峙することがそう苦痛でなくなって、誰かを嫌ったり憎んだりすることも自分自身の重荷として直接自分で担えるようになったから*1、属性だけで判断しないようにしよう、という心がけができるようになった。しかし、やはり若いころというか、思春期にはなかなかそうはできなかった。
男は云々。大人は云々。社会は云々。etc.
レッテル貼りともちょっと違う。レッテル貼りは、まずそこに一人の人がいて、その人をジャンル分けしてそのジャンル・属性で判断する、という行為。
属性を嫌う、憎むのは、そこに人がいてもいなくても、その属性自体に対して判断している。つまり、実際に存在する人を嫌ったり憎んだりしなくても済む。
人を嫌ったり憎んだりするのは、やはりネガティブなエネルギーを発するものだし、それに伴う罪悪感やら自分自身に対するネガティブ感もしばしば伴うし、嫌った相手からネガティブな反応を引き出す可能性もあるわけで、やっぱりできればしないほうが自分も結局楽だ、と思う。いや、思っていた。
ありがたいことに、属性自体はなんの感情ももっていない概念にすぎないから、それを嫌ったり憎んだりしても、自分に直接的に戻ってくることはないし、感じる罪悪感も少ない。
楽な道なら、そこを通りたくなる人が多いのは当たり前かもしれない。
*1:そのことで逆に人を嫌ったり憎んだりすることが激減したという利点もある。嫌ったり憎んだりしてストレスになるくらいなら、もう一度本当にそれが必要なのか考え直してみようよ、と自分に言えるようになった。