深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

子どもに頭を占拠される

中学・高校時代の友人と仲間うちのMLを作っており、そこで互いに近況の話だの、お祝いごとの話だのをしている。MLに移行する前は掲示板を使っていた。
初期の話だが、当時私は結婚したばかりでまだ子どもがなかった。30歳すぎくらいだ。そのころ掲示板に出入りしていたメンバーは、半分くらいが結婚して子どもがあり、あとの半分は独身だった。ちなみに全員女性。結婚したけど子どもがいない、という者がいないのは、全くの偶々だ。
近況報告といっても、普段の暮らしでそんなに報告するような話もなく、掲示板の進行は良く言えば極めてまったり、どっちかというとほとんど過疎であった。しかし、時に誰かが書き込むと、それに呼応するようにレスがついたり、私は今こうだよ、と別の方面から近況報告がある、といった感じ。もともと、みんなどうしてるかな、書きたい時に適当に書けばいいよ、というゆるい使い方なので、それでなんの問題もない。
ただ、そのころ私が、なぜか面白いというか不思議だな、と思っていたのは、そうやって話題が盛り上がる時は、大抵の場合、子どもの話なのだった。「うちの子は今こんなです」と誰かが書くと、「あー、うちもそうそう」「うちはこうだよ」という感じで、各家の子どもの話題が続いて出てくる。子どもの話題以外だとあまり盛り上がらない。反応がないわけじゃないが、つくのは普通のレス、まさにレスポンスという意味においてのレスであって、「へぇ、そうなんだ。私はこうだよ」という話にはあまりならない。
これが、子どものいない私にとっては、とても不思議だった。なんで子どもの話しか盛り上がらないのかなあ。子どもの話もそれはそれでいいんだけど、私としては、友人たち自身の近況についても聞きたい。でも、本人たちはあまり話す気はないようだし、こちらから子ども以外の話を振っても反応が悪い。
じゃあ独身者たちはどうしていたのか、というと、掲示板への書き込み自体をほとんどしていなかった。一応、業務連絡的なものがあることもある(誰かの祝い事だとか)ので、目を通してはいたようだが。それじゃあ独身者たちは書き込むような話題も持っていなかったのか、というと、そういうわけでもなく、独身者同士で会って話したり、遊んだりしていた。そういうところに私が混ぜてもらうこともあったが、なかなか楽しい話がいろいろとあった。さすがにプライベートな話が多いので、表に出る掲示板へは書きにくかったこともあるのだろうが、もっとも大きな理由は、掲示板の雰囲気が、そういうことを書きにくかったのだろうと思う。旅行に行った話や飲み会の話を書いても、どうせ通り一遍の反応しかないだろうし、わざわざ掲示板に書いて報告するほどの内容でもないし、ということだったのだろう。
結婚はしているが子どものない私の立場はどっちかというと独身者たちに近い状況で、子どもの話題自体は嫌ではないけれど、なんとなく入り込みきれない寂しい気持ちはしたものだった。


その後、子どもが生まれた。掲示板はMLに代替わりし、プライベートな話もしやすくなった。
子どもが生まれてみて、あのときなぜ子どもの話題しか盛り上がらなかったのか、突然理解した。嫌というほど。
小さな子がいると、自分のことにかかわずらってなどいられない。自分のことは後回し、とにかくなんでも思考のいの一番は子どものことなのだ。頭は子どものことで一杯だ。自分から進んでそうしている、というより、子どもに脳内に乗り込まれて占拠される、というほうが正しい。決して不愉快な感覚ではないのだが、それでも、ふと気がつくと、私って最近子どものことしか考えてないな、これってどうなのよ? と愕然とすることがある。
あの時、みんな子どものことばっかり話していたのは、こういうことだったのか。子どもの話題が好きだったり面白かったりしたからじゃなくて、そのことで一杯一杯だったんだ。
どうしてそうなるのか、は、自分が実際に体験した今でも、ちょっと不思議だ。こんなのは本能でもなんでもない。実際に子どもと接して習得した、思考の癖あるいは思考技術みたいなものだと思う。しかし、そのように意図しているわけでもないのに、なぜそういう癖が身についてしまうのか。癖の会得自体が社会的なものなのか、それとも生物学的なものなのか。後者ではないと思うが、しかし純粋に前者だけでもないように思う。


もう一つ、この例は、全員が女性である、という前提がある。
男性(父親)の場合は、子どもができたからといって、頭の中が子どものことばかりになる、というケースは、さほど多くないように感じる。子どものことにも興味はあるが、自分自身のこと、例えば自分の趣味のことなどへの興味もなくさない。
女性(母親)の場合、自分の趣味ごとを続けるとしても、子どもとリンクさせた形で実現しようとすることが往々にしてある。例えば、「子どものために」という前提を自分の中につくって、手芸をしたり、音楽を奏でたり、お菓子をつくったり、ということをするのである。別に子どもがいても、子どもと関係なく趣味ごとをしてもいいじゃないか、と思うのだが、なぜか「子どものために」を置くと満足度が上がるのか、あるいは罪悪感が減るのか、よくわからないが、趣味ごとにとりかかりやすい、あるいはやる気が上昇する、という心理がある。
(当然だが、これは男性女性全般に当てはまるわけではない。あくまで傾向の話である)


最近は、友人たちの子らが大きくなってきて、今度は子どもの話題が減ってきた。さすがに小学生、大きい子は中学生くらいになってくると、話のネタになることも少なくなってきて、親の頭の占拠範囲もだんだんと少なくなってくるようだ。最近よく見かけるようになってきた話は「今、○○に萌えてるの!」みたいな話である。いやあ、良きかな良きかな。