深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

子どもを持つことと「若さ」

親にとって、子どもとは、すなわち「若さ」だ。
若さ、若さってなんだ! とつい歌いたくなるが、それはおいといて。
「若さ」には希望がある。まだ決定されていない行く末がある。無限の可能性、いや実際には有限だが、それでも親に比べればはるかに多くの可能性がある。
大人は、子どもを得ることによって、一度は失った「若さ」を再び手中にすることができる。


よく言われることに、子どもができると急に老け込む、という話がある。
同級生同士で久々に集まったとき、子どものいる人は妙に落ち着きがある、悪く言えば老け込んでいる。子どものいない人は既婚未婚に関わらず、若々しさを保っている。皆が皆ではないが、そういう傾向があるとは言われるし、実際そう感じることもしばしばある。
この理由として、子どもができると自分のおしゃれに構っている余裕がなくなるから、ということもまた言われる。それはそれで分からなくもない。しかし、男性の場合はあまりそういうことは関係ないと思うのだが、やはり同様の傾向は女性ほど顕著ではないにしてもやはり見られるように思う。


子どもは、いわば「若さ」の純粋な結晶のようなものだ。そこにある「若さ」は気力やファッションで繕った作り物ではなく、エネルギーに満たされた本物の眩しい「若さ」だ。
そんな本物を身近に手に入れることで、親は満足してしまうのではなかろうか。自分自身が必死に「若さ」を保とうとしなくても、そこに作為のない「若さ」がごく自然に存在するのだから。
そうして、親となった者は、自分の持っていた「若さ」の残り滓を手放して、自分自身は老けたように見えるけれど、しかし子どもの「若さ」を一緒に楽しむようになるのではないだろうか。
そんなふうに思う。自分自身も含めて。


やがて子どもは成長して大人になる。いつか「若さ」を手放すことになり、親も子どものもっていた「若さ」をふたたび失う。
そんなとき、みたび「若さ」がやってくることがある。孫だ。
祖父母が、普段は「ああ、しんどい」「身体のあちこちにガタがきた」とごろごろしながらぼやいているのに、孫が遊びにくると急に元気がでてあれやこれや相手をしたり頑張って一緒に出かけたりする様子、表情が輝いている様子は、孫の「若さ」のお裾分けなんじゃないかと思わずにいられない。


で、「若さ」ってなんだろう。
簡単に言葉で表現はできない、でもそういうものがあるということは感じているのだが。