深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

葬儀は誰のために

葬儀というのは、基本的に、故人のためにするものではないよなあ。
故人は亡くなってしまっているのだから、自分の葬儀が行われようと行われなかろうと知ることはないわけで。
故人を亡くして悲しみを抱えている親族やのためかな。多少はそれはあるかな。葬儀をすることによって、故人は亡くなった、いなくなったんだ、と区切りをつけるという意味で。が、それだけなら、大々的な葬儀を行う必要はあまりないわけで、親族の中でだけわかればいい話。実際、葬儀を行わないケースもあるし。
しかし、葬儀は誰のために行われるかというと、つきつめれば参列者のためなんだろうな。この方は亡くなりました。会う最後のチャンスです、この機会を逃したらもう二度と直接会うことはできません。お会いになりたい方はどなたでも結構ですからいらしてください。
参列者の側にも、いろいろな事情がある。故人と本当に会いたかった人。仕事上や人間関係上のことで、礼儀として参列しなくちゃならないな、という人。本当に会いたかった人はややこしい手続きなしに会いにいくことができるし、礼儀を果たさなければならない人は、ちょっとした手間で礼儀を果たすことができるし、その礼儀を親族やその他の人、例えば仕事上のつきあいのある人などにアピールできる。
たくさんの方にご参列いただき、故人も喜んでいることでしょう……と挨拶しつつも、故人はそのように思わない、思いたくてももう亡くなっているから思えない、ということはみんな知っている。


葬儀屋さんやお寺さんのためでしょ、という話はなしってことで。