深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ネット知人は友人にならない

それなりにネット歴も長いので、ネットで知り合った知人はまあまあたくさんいる。中には15年以上のおつきあいになる人もいる。
しかし、その中で友人といえる間柄になった人は一人もいない。もうすこし正確に言うと、私から見て友人,友達といえると思う人は一人もいない。
私にとって、迷いなく友人といえるのは、学生時代に知り合った人々のうちの何人かだけだ。今では遠方に行ってめったに会うこともなく、電話やネットを含めても言葉をかわすことも少ない人もいるが、しかし今でも友人だと感じている。


だからといって、ネットで知り合った人たちとの精神的距離が遠いかというと、そうでもない。ネットにいる限り、いろいろと話をする機会は多く、むしろ友人には話さないような腹を割った話をすることもある。罵倒コミュニケーションを気軽にとれるくらい親しく話しあう人もいる。
しかし、それでも、彼らを友人と呼ぶことにためらいがある。
このように話ができるのは、ネット環境があるからであって、もしもどちらかがネットから遠ざかったから、それっきりその人との関係は消えてしまうだろう。そう感じるからだ。
どんなに腹を割って話せる相手でも、その相手が実はどこの誰なのか、与えられている情報どおりの人物なのか、そもそもその人物が現存しているのかすら分からなかったりする。そんな相手を友人とは呼べないと思う。ただ、実際には、実名やその他のリアル情報もお互い把握していて、オフ会などで何度も実際に会ったり、家族ぐるみでもつきあいがあったりという人もいるので、十把一絡げには言えないのだが。
それでも、そこまでつきあいがあっても、ネットから離れてしまえば、きっと彼らからも離れてしまう、彼らも私から離れてゆくのだろう、そして自然に関係が消滅するのだろうと、妙な確信がある。


ネットで友人ができた、ネットで知り合った人と友人になる、という人のほうが多いのだろう。
たぶん、私は、ここからが友人だよ、という閾値が高いのだ。
そこで考えてみたのだが、私の中では、友人と呼べるのは、どれだけ長い時間交流がなかったとしても、もしその人がなくなったと聞いたら、遠方でもできる限り、葬儀には直接駆けつけたいと思う相手。どうしても葬儀には行けなかったとしても、せめて近いうちに仏前には行って直接手を合わせたいと思う相手。どうやらそれが私にとっての「友人」らしい。
ネットで知り合った人については、そこまで思う人はいない。


ではネットでは一定以上近い関係は築けないと思っているかというと、そんなことはない。
ネットで知り合い、ネット関係(グループでのオフ会含む)以外での個人的つきあいはずっとなく、間に私がネットから離れていた時期(年単位の長さ)には全然連絡をとりあわなかった人と、結局は恋愛し結婚した私が、どの口でそんなことを言えるはずがあるやら。