深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「空気読めない」の多層性

「空気読めない」の範囲 - 深く考えないで捨てるように書く
こちらにコメントをいただいたりして、あっそうか、と思ったこと。


「空気読めない」と「(あえて)空気読まない」は、空気を読む側からすると大きな違いだ。前者は、その場で自分に期待されている役割や行動について思いつかない、気がつかない、ということ。後者は、そういった期待されている役割・行動について承知しているけれど、わざとそれを行わない、期待されない役割・行動を呈する、ということ。
この2つのもっとも大きな違いは、実際に自分に期待されている役割・行動について承知しているかどうか、だ。
だから、「(あえて)空気読まない」は、その期待されているものに対する反対意見あるいは否定意見である、ともいえる。
一方、「空気読めない」場合は、期待の内容そのものを承知していないから、「空気読めない」行動はなんら期待に対する価値判断を行っていない、ということである。


ところが、その行動・言動を見る側、つまり「空気を読めないor読まない」行動を受けた側は、その違いがわからない。
受け手側から見ると、その人が(自分の)期待に反する行動をした、(自分の)期待する役割を行わなかった、という事実のみが見えるのである。
従って、受け手側にとっては、「空気読めない」と「(あえて)空気読まない」を区別する方法は、純粋な意味では存在しない、ということだ。
現実には、「空気読めない」なり「(あえて)読まない」なりした人が、普段はどんな行動をしているのか、どんな性格の人なのか、常に空気に馴染まない行動・言動をしているのか、あるいはその場に応じて選択しているように見えるのか。そういった副次的情報から、「読めない」のか「読まない」のかを判断する。
ここで、「読めない」と受け手が判断した場合、そこから「読めないor読まない」ことによるメッセージ性は失われる。簡単に言えば、ああ、そういう人だもんね、で終わる。
一方、「(あえて)読まない」と判断した場合、そこに「自分はその空気に従わない」という意志のメッセージを受け取る。


で、問題は、そこの「読めない」と「(あえて)読まない」の判断は往々にして間違うことがある、ということなのだ。
なぜなら、そこを判断するためには、膨大な情報とその適切な処理が必要だからだ。具体的に言えば、その相手との長いつきあいや人格・性格の判断であったり、さらにはまさにその場の「空気」の判断そのものがそれを左右することもある。つまり、判断する側もまた、正しく「空気を読める」のでないと、判断できないってことだ。判断する側が実は「空気が読めてない」、という可能性も多分にある。この場合、「あいつ空気読めてない」という判断自体が間違うことになる。


一対一の場合、その場の「空気」は極めて流動的で、ほんのちょっとしたきっかけでころっと変化することは、よく経験することだ。
これが多数になった時はどうなるか。多数になったとしても、基本は変わらない。自分以外の人間が全員、同じ「空気」を感じているとは限らない。同時に、自分の感じている「空気」と同じものを感じている者が他者の中にいるかどうかも、わからない。
「(あえて)空気読まない」行動は、実は、実際に多の中の一人一人がどんな「空気」を感じているかを掘り起こすきっかけとして作動するものであり、「空気」への探りを入れる行動でもあり、それを行うことによって「空気」の判断をより正確に行おう、という方策でもある。


ということも言えるだろうか。