アンパンマンのもつ聖性
やっと本題。
原作のアンパンマン(あんぱんまん)の成り立ちや、やなせたかし先生のスタンスなど、いろいろと読ませていただいた。そして、当初の「あんぱんまん」から時がたって人気が出て、テレビ化されて、内容的にも変化があり、現在のアンパンマンになっている。ここまでを前提とし、現在のアンパンマンをベースとして、以下を書く。
アンパンマンは2〜3歳の幼児に人気がある。そして、3〜4歳を過ぎると、その人気は急激に落ちる。大人になると、むしろ気味悪がったり、ネガティブに感じる人も増えてくる(参考:アンパンマンが憎くて仕方ありません。私って変ですか? -アンパンマン- アニメ | 教えて!goo)。アンパンマンの世代ごとの認識はこんなふうだと私はとらえている。
これについて、どのあたりにその要因があるのか、いろいろな考察を読ませていただいた。どれもなるほど、と思う説得力がそれぞれにある。
その中で意外に出てこないな、と思ったのが、アンパンマンが絶対善で、バイキンマンが絶対悪である、という観点だ。上記の「教えて!goo」のリンク先に出ている話である。
アンパンマンが絶対善として描かれていることは、比較的わかりやすい。しかし、バイキンマンは絶対悪なのかどうか。
実は、私はバイキンマンは好きだ。しかし、バイキンマンの行動について、どうしても解せないというか、ここが不気味だ、というところがある。それは、バイキンマンはなぜ悪いことをするのか? ということだ。
テレビシリーズを見ていると、バイキンマンは、よく理由なく悪さ、いたずらや嫌がらせをしている。時にはドキンちゃんの望みを叶えるために、などの理由があるときもあるが、ただ誰かが楽しそうに何かしているだけのところに、えーいめちゃめちゃにしてやるぜ、とただそれだけの理由で悪さを働きにいくことも多い。
この、理由なく悪いことをする、という指向性から、バイキンマンは愛嬌はあるが、なんらかの事情(世界征服とか、魔法の宝物を探し出すためとか、自分の一族を滅ぼしたアンパンマンを殲滅するためとか)があって悪を働くのではない、絶対悪である、という位置にあると考えられる。
この「絶対に善い」と「絶対に悪い」の構図は、2〜3歳の幼児にとっては、非常にわかりやすい概念である。
ただの「善い」と「悪い」は認識できるが、「なぜ善い」のか、「なぜ悪い」のか、は、まだ言葉も抽象的概念も初歩的なこの時期の幼児にとっては、まだ複雑すぎるのだ。例えば「他人のものを欲しくても勝手に取っていくのはよくないよ」は理解できる。しかし、それはなぜか、という理由はまだ難しい。また、同じ行為について、時と場合によって善悪(とその程度)は変わるんだよ、という概念は、2〜3歳にはまだ理解できず、往々にして混乱を招く。以前とりあげたことのある「赤信号は渡っていいのか」という話とつながるが、この年齢では、悪いものは(常に)悪い、善いものは(常に)善い、という範疇を抜け出すことはできない。
そういった「なぜ」を含まない、単純化されたアンパンマンの善悪構図とストーリーは、2〜3歳の幼児にとっては最も理解しやすく受け入れやすいものなのだろうと思う。
しかし、「なぜ」を理解できる年齢になると、「なぜ」のないアンパンマンは非常に平板で子どもっぽく、また納得のいかない世界となる。どうしてバイキンマンはアンパンマンたちと仲良くしないの? アンパンマンはどうしてバイキンマンをやっつけないの? バイキンマンはアンパンマンの弱点を知っているのにどうしていつも水をかけないの? 云々。その嘘っぽさ、作り物っぽさに子どもたちは気づき、より自分を満足させるところへと去ってゆく。
年長幼児の「まだアンパンマン見ているの?」は、もしかしたら、「あんな嘘くさいものまだ信じているの?」という、いわば「サンタクロースが本当にいると思ってるの?」的なニュアンスを含んでいるかもしれない。
さて、アンパンマンの「絶対善」性は、つまるところ、聖性なのではないかと私は思っている。
アンパンマンは聖者の姿そのものだ。自分の身を削って他者に分け与え、自分は欠けてゆく。相手から攻撃されるまでは決して攻撃しない。しかし悪魔(バイキンマン)の攻撃を受ければ防御し、戦い返し、悪魔を打ち倒す。あによりも、自分を守るためではなく、他者を守るために戦う。自分自身は守るべきものではないからだ。
やなせ氏がクリスチャンである、という話を聞いて、そこに合点がいった。アンパンマンは善というより無垢の聖者であり、バイキンマンは悪魔なのではないだろうか、と。
その聖性は、ある視点から見ると、大変に美しい。アンパンマンが悪をなすことはないと、見ている側は安心している。
しかし、別の視点から見ると、それは非常に心地悪いものだ。アンパンマンは人間ではないから、その聖性を踏み外すことはない。しかし私は人間で、そんなご立派なことはできなくて、決してアンパンマンにはなれない。むしろバイキンマンのほうに近い、だから実は「絶対に善い」アンパンマンから殴られる存在なのではないか。
そのことに気がつくと、アンパンマンから離れてゆく。そして場合によっては、アンパンマンを嫌う。
昨日の記事で、我が家の娘のことについて書いた。今思えば、彼女は、そこにアンパンマンに殴られる自分を見てしまったのかもしれない、と思う。歌のビデオでは、ずっといい子ちゃんのアンパンマンよりも、ちゃめっ気たっぷりで、ちょっとずるもするけど愛嬌のあるバイキンマンに好感と親しみをもっていた。「バイキンマンが好き」とはっきり言ってもいた。
そのバイキンマンが、悪さをして殴られる。その痛みを自分でも感じてしまっていたのではないだろうか。
極端な聖性は、キモイ、不気味だ、と思われることがある。
それは、それが人間離れしているからである。人間ならば誰でももっているような穢れに欠ける。
現実に存在する聖人といわれる人々は、それぞれに聖性とともに人間的なところも持ち合わせている。だから不気味でもなんでもないのだが、アンパンマンは聖性の象徴のごとく、穢れをもたない。そもそも人間でもないんだけれど。
心をもたないロボットが不気味に思われるような、そういう不気味さがつきまとう。
3歳前後は、反抗期の時期でもある。
すなわち、それまでは保護者や世界に絶大なる信頼を寄せ、疑うこともしなかったのが、小さな自我が目覚め、保護者を試す行動がみられたり、反抗してわざと「(大人から見て)悪いこと」をしようとしたりする。それは成長にとって不可欠の、重要な「悪さ」だ。
アンパンマンは、やはり3歳までのパラダイスなのだと思う。人間として必要な穢れを負う前の子どもだけが住まうことができ、そして3歳までの子どもにとっては、とても分かりやすい、ストレスの少ない世界だ。大人から見て、これを受け入れられないのも当たり前。大人もその世界には受け入れられない。
しかし、これを作り出したのもまた、大人なのだ。そこが不思議でもあり、面白くもある。
【追記】(2007.9.11)
書き上げた直後に追記。
アンパンマンの単純化図式は、子ども向きの民話や昔話(花咲爺さんやカチカチ山、桃太郎などの広く流布されているタイプの話)にみられる善悪の単純化とも共通するように思う。よい爺さんと欲張り(悪い)爺さんの対比や、鬼=悪役(有無を言わせず悪い)という図式化とか。