深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

友人、友情、親友について。私の場合

suVeneのあれ: 本当の友達を読んで、つらつらと。

中学〜高校くらいのころ。
自分にとっては、友人=本当の友人だった。以前ネット知人は友人にならないという記事の中でも書いたが、私は友人と認識する閾値が高い。その理由はここにある。ただ遊ぶだけの相手はただの遊び仲間、友人には該当しないと思っている。現実には、中高のころは、たまたま友人と認める相手しか遊び仲間もいなかったのだが、比較的少人数の部活をしていたこともなどもあり、たまたまそうなっただけのことだろう。
さて、では友人ってなんなのか、という話になる。
自分の場合、友人とは、何を言っても受け止めてくれる(と私が思う)相手であった。耳に痛いこと、きついこと、悲しいこと、やばいこと、基本的に話すタブーのない相手だと考えていた。生死に関わることや性に関わること、自分自身の存在の意義に関わることなど。表現を変えると、言葉で殴り合うことができる相手とでもいえるだろうか。
もちろん、一方的に言葉で殴っていれば、相手は立ち去るだろう。私は同時に、自分もきつい言葉や重い言葉を投げられることを厭わなかった。言い換えると、言葉で殴られることを受け入れていた。殴ってこいよ、殴られたら殴り返せよ、という態度を示した。
いつも殴り合っていたわけではない。ケンカ仲間というものがいつもケンカしているわけではないのと同様に、普段は楽しく遊んだり趣味の話をしたり冗談を言い合ったり、ごく普通にしているわけだが、それと同時に、時には(中高生としては)深い悩みや哲学めいた話をしてみたり、批判的になったり、きつい言葉を放ったりもする。そういうことが許容される相手を友人と思っていた。そして、それを許容しない人間とは友人になれないしなりたいとも思わない、とも思っていた。
(まあ、そもそも実の親にまでしょっちゅう「あんたの言うことはきっついねぇ」と言われ続け、かつその言葉のどこがきついのか自分では分からない奴が、きつい言葉を使うなよ、と言われても、無理な話。やっぱりどこかできついことをぽろっと言ってしまうから、そういうのを受け付けない人は、たとえ私のほうから近づきたいと思っても、向こうが逃げていくだろう。世の中はうまくできている。いや、私のほうが適応しただけかもしれないが。)


こういう関係が許容されるのは、そういう言葉での殴り合い(率直なきつい言葉や時に否定的な言質)が最初から苦手ではない、という性格と、この相手になら言われてもいいか、というその人自身に対する好意や許容の両者が並立する場合だろう。前者は似たもの同士が集まる、という現象かもしれない。後者は友情を育てる、ということか。
友情とは、つまるところ、好意なのだと思う。相手のことを好きだと思うこと。
例えば、もし友人に悪いところ、直すべきだと他人から言われるところがあったとしたら、注意するか。これは難しい点だと正直思う。友人だからちゃんと注意する、という人もいるだろう。友人だけど注意できない、相手が遠ざかったらいやだから、という人もいるだろう。他のすべての人がそこを悪いと言っても私は悪いと思わない、そこも含めて私はその人が好きだ、という人もいるだろう。私も直した方がいいとは思うが、どうしても直せないならそれも含めて受け入れるよ、という人もいるだろう。でも、どの友情も間違っているとは私には思えない。みな、友人の態度としてありうると思うのだ。共通するところは、その人のことを好きだ、という一点。それが私の思うところの友情だ。
恋愛とどこが違うのか、ときかれると、正直困る。私にとっては、友情と恋愛の境界はぼやけている。親友ともなると、限りなく恋愛に近い。相手に対して性欲がないだけだ。念のため記載するが、私の友人はほぼ100%、女性である。大学時代に男性の友人といえる人が一人だけいた。しかし今はほとんど没交渉、年賀状のやりとりがあるだけであり、既に友人とはいえないと感じている。異性の親友はこれまで存在しない。


もう30代も半ばを過ぎると、人間が丸くなったのか、新しく殴り合いをしてくれる相手は必要なくなった。そもそも殴り合うほどのパワーがない。昔からの友人も、パンチの威力は減った。私も同様。それでもかつて激しく殴り合った記憶を追うように、時たま軽くジャブを食らわしあう。「相変わらず○○はきっついよねぇ」と笑いあう。
新しい人間関係は私の元に訪れる。日々いろいろな人と出会う。実際の生活の中でも、ネットでも。中には好ましく思う人もいる。でももう、私の思うところの「友人」関係になることはないだろう。私を言葉で殴りつけるのはかまわない。それを私が受け入れられる相手はこれからもまだ現れる可能性がある。でも私はもう相手を殴らない。たぶん。
しかし、その関係は「友人」と同じくらい素晴らしいものになる可能性も十分にあると、今はそう思っている。