深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

多くの言葉で多くのことは伝わらないが、少ない言葉で多くのこともやっぱり伝わらない

よりたくさんのこと、より詳しいことを伝えようとすると、饒舌になりがちだ。
言葉を綴る自分は、あれも言いたい、これも伝えたい、これを伝えるためにはこちらもで前提として伝えておかなければならない、そうすると関連してこれも言うと分かりやすくなる、と思いつつ、どんどんと言葉の量が増えてゆく。
しかし、言葉の量を増やせば伝えられる内容が増えるというものではなく、結局そのうちのごく一部しか相手には伝わらない。前提だけが伝わっていたり、主題ではなく関連内容だけが伝わっていたりすることも往々にしてある。


それでよく言われることには、推敲して短文にしろ、という。
たしかに全体の内容としては分かりやすくなる。本当に伝えたいことだけを言葉にするから、伝えることに関わらない無駄な言葉は減るし、そのぶん言葉の量に比して伝わる内容の割合は大きくなる。
しかし、だからといって、長い文章よりも伝えられる内容の量が多くなる、ということはない。短文で伝えられることは、あくまで短文の量、少量のみ。一見多くが伝わったように見える場合もあるが、それはあくまでラッキーな偶然であって、受け取った側がその文から新たに考え出したことが、たまたま筆者の心の中にあって文章にならなかったことと一致しただけのことだ。伝えたわけではない。


早い話、多くを伝える、ということ自体が困難なのだろう。
伝える、ということは、それを受け取る側が必ずいる。受け取る側は、一度にそんなに大量の内容を受け取ろうとはしていないし、受け取りたいとも思っていない。だから「多くを伝えたい」という意図を持つ長文は嫌われる。
しかし、伝える側にはしばしば、多くを伝えたい、という欲求がある。多くの内容を伝えることで、誤解が減ると思っているきらいがある。
私はこう考える、それはこうだからだ、その理由の根拠はこれだ、この根拠はこんな経緯で生まれたものだ。この過程で、もし「私はこう考える」だけであれば、分かりやすいが、多数の誤解や憶測を生むだろう。だからつい、あれもこれも述べてしまう。そして、第1段落に戻る。


自分は、多くのことを伝えるには、短い言葉、短い文章で回数を重ねることが効果的なのではないか、と思っている。さらに、そこに対話があればさらに効果的である。すなわち、上の例で言えば「私はこう考える」→「それはなぜですか?」→「こうだからです」→「それは本当ですか」→「その根拠はこれです」→……というような流れだ。
しかし、これもまた難しい。回数を重ねることを許してくれる人とそうでない人がいる。対話することも、相手を選ぶことであり、対話に適しない相手もいる。


多くを伝えられる、と思うこと自体が無茶なんだろうな、と思う。
一度に伝えられることはほんのわずかだ。だから、こんなに頑張って書いたのに伝わらなかった、と思うほうがきっとうまくないのだ。伝わらなくて当然で、たくさんの誤解があるのも当然で、そういうものだと思っておくのが妥当なのだ。
そこで、「それならもう何も伝えなくていいや」と思うか、「少しでも伝わるなら伝えたい」と思うかが分岐点になる。


【追記】(2008.5.30)
深く考えないで書きつらねたら長文になっていたw
伝える気のない文章の典型がこれです。