深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「できない」と「しない」

「できない」と「しない」の間には、果てしない落差がある。
しばらく前の匿名ダイアリーの記事で、「子どもが産めない」と「産まない」は全く違う、という話があった。子どもを産む気はなかったのに、いざ「産めない」ことがわかると、そのことが苦になって……という話。


ここのところ、今シーズン真っ盛りの中学受験*1掲示板を読んでいると、切ない話が載っている。何年も頑張ってきたけど、いくつも学校を受験して、合格したのは想定外の偏差値の低い滑り止め校だけ。そこへ進学することにしたけれど、正直いって辛い……という親の投稿。
これに対し、自分のところは、いくつか合格した中から、校風や通学の関係で一番偏差値の低いところに行きました、大事なのは偏差値じゃないですよ、という励ましの投稿が。
さらにそれに対して、そりゃいくつかの合格の中から選ぶのと、そこしかないのとでは全然違うでしょう、という投稿。
そうなんだよなあ、学校がどうこう以前に、「できない」と「(選択してそう)しない」のとでは、結果としては同じでも、心理的には雲泥の差がある。


自分の場合は、自然分娩がそうだった。長女の出産のとき、胎児が下りてこないのと、妊娠中毒症で血圧が上がったのとで、帝王切開になった。嬉しい出産なのに、自分は普通に出産することもできない欠陥品なのだ……と落ち込んだ。初産で帝王切開だったこともあってか、最初は母乳が少なかった。これも帝王切開でしか産めなかった私が悪いんだ、ごめんね娘、と泣いた。このことを完全に思いから振り切れたのは、次女をなんとか自然分娩で産みたいと自分で頑張って逆子を直したあと、結局あっさりと「反復帝切」のため帝王切開に決定された時だった。あ、だめなんだよね、そうだよね、当然だよね、と。
そこでふっと我に返った。帝王切開だったからどうなんだ、そんなの単なる過程じゃないか。確かに腹に傷は残るが、別に美容を気にするタイプでもない。別にどっちでもよかったんじゃないか。今までなにを気にしていたんだろう。
が、そこに至るまでには、結局2年半かかったわけだ。
「できない自分」を認めることは、難しい。いろいろな意味で。


「空気読めない」と「読まない」の間もそうなんじゃないかな。
あえて「読まない」人(逆らうだけではなく、場の空気に流されず自分のスタンスを守る場合も含めて)は、別に読まなくていいじゃないか、別に必要ないでしょ、と思うかもしれないが、「読めない」人にとっては、もし結果的に困ることはないとしても、苦痛を感ずるものなんじゃないだろうか。
そんなことを思う。

*1:高校・大学受験になるとこの手の話はあまりない。高校はざっくりと進路指導で相当安全な受験校が決まってしまうことが多く、大学受験では浪人があるので、そこまで切羽詰まらない。それ以前に、高校以上の受験は親の関与が非常に少なくなるので、こういった掲示板に出るような話があまりない。