深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

『「できない」と「しない」』ブックマークコメントへの返信

昨日の記事『「できない」と「しない」』にいただいたブックマークコメントについて、いくつかご返答したいことがあったので、記事にする。

id:suVeneさんより。

suVene 空気 『「読めない」人にとっては、もし結果的に困ることはないとしても、苦痛を感ずるものなんじゃないだろうか』 まぁそれが、「読みたい」人ならば、そうかもね。

その通りなんですが、空気を読むことに限らず、「できない」場合に「したい」欲求が通常以上に増大する、という場合があります。
それは、「できない」ことによる自己評価の低下がストレスとなり、そのストレスを解消したいために起こる心理的反応なのではないかと思っています。つまり、意図的に起こすものではなくて、自然に起こってくる状態だろうと。
これまたよくある話で、今までしたことがないことに挑戦するとき、行うまでは非常に不安や緊張が大きいけれど、いざ一度やってしまえば、なーんだこんなことか、と次回からは平静に行えるようになる、ということがあります。「できない」場合は、この「一度する」がないため、その「できない」行為に対して不安や緊張が持続する、ということがあるように思います。
「読める」人よりも「読めない」人のほうにより強く「読みたい」と思う人がいるかもしれない。「読める」人は「読みたい」と思う以前に労せず自然に日常的に「読んで」いるから。……というのが、元記事を書いた時、自分の頭の中で補足的に考えていたことでした。
もちろん、「読めない」けれど全然気にしない人も多数いるでしょう。
(なお、ここでいう「読めない」人は、自分は「読めない」と思っている人、という意味で使っています。他者からの評価によるものではありません)


id:hemo-hemogeさんより。

hemo-hemoge コミュニケーション 認めにくいとは思うけど、過剰に卑下する必要もない。自然分娩が帝王切開より優れてるような風潮があるのが不思議だ。自分なら無事生まれたことを喜ぶ。過程は問題じゃない。

その通りなんですよね。過程は問題じゃない。別に自然分娩と帝王切開の優劣があるわけでもない。自分の専門分野とも関係するところなので、そこは出産前にも後にも十分理解していました。
にもかかわらず、自分はその陥穽に落ちました。当時でも、何度も自分に同様のことを言い聞かせていましたが、それでも完全に抜け出すことはできなかった。そこが不思議でもあったけれど、人間ってそういうものなのかも、「頭で分かっていること」と「自分が感じること」が一致するとは限らないものなんだ、と受け入れる気分になったのもまた事実です。
もちろん、無事の出産は喜びました。それは言わずもがな、というやつです。
当時の状況は、過去のブログで書いたこの記事に書いてあります。参考までに。
インフォームドコンセントって難しいby患者: ふたつとない日常 本館&moblogログ倉庫


id:julajpさんより。

できない事よりも出来ている事を。既にあるあとちょっとで出来そうな事を。/出来ない事を殊更に取り上げて問題視不安視で、克服補完しようとしても待っているのはデスマーチ。特に子育てなどでは要注意したいもの

同感です。「できない」の引っかかりから抜け出すのに一番いいのは、「できない」からってなんだ、こんなのできなくてもどうってことない、と未練を断ち切ってしまうことだと思います。
とはいえ、「できない」ことの重大さによっては、一生引きずる人もいますね。それが良い方向に作用することはまずないので、どこでどう断ち切るか、断ち切るための方策は、というあたりになるでしょうか。


以下、ブックマークコメントとは別に。
元記事には、実はミスリーディングがある。
前半の不妊の件や受験失敗の件と「空気読めない」の件には、本来は同列に語れない大きな違いがある。
前半は、「絶対に(もう)できない」という例なのだが、「空気読めない」は絶対にできないわけではないのだ。従って、前者は諦めて現実を受け入れる以外に方法がないが、後者は今後できるかもしれないし、場合によってはできるかもしれないし、もしくはできないかもしれない。そういう不確定性を含んでいる。
書き上げた時にはそこまで考えていなかったが、あとから考えたら、ミスリーディングであった。