深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

例えば、食べて幸せな気分になる場合

おいしいもの食べて幸せな気分になる、というのは、まあよくある話。
特別そううまくもないものを食べて幸せな気分になる、というのは、そういう人もいるしそうでない人もいて、どっちがいいとか悪いとかいう話では全然ない。が、とりあえず、そううまくもないものを食べて幸せな気分になれる人は、そううまくもないものを食べても幸せな気分になれない人と比べると、幸せな気分になれるチャンスは多いぶん、よく多くの幸せな気分を得ることができるだろう、とはいえるかもしれない。
もうどうにもまずいものを食べて幸せな気分になる、というのは、これはなかなかに難しい。技術次第ではどうにかなる。例えば「こんなまずいものを知るチャンスを得た私は幸せものだ」とか「これほどまずいものを食べた経験のある私なら、大抵のものをおいしく感じることができるから、結果的にはきっと幸せなんだ」とか。
でもまあ、そこまで技術を磨いてまで幸せな気分を得たい、というのも、別の意味で欲張りというか、完璧主義というか、幸せ至上主義というか。
おいしいものを食べたらすごーく幸せな気分で、そううまくもないものを食べたらそこそこ幸せな気分で、とんでもなくまずいものを食べたらさすがにどよーんと沈滞した気分で。
そのくらい凡庸でちょうどいいかなあ。