深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

カフェエプロンの存在意義

家庭におけるカフェエプロンの存在意義がよくわからない。
自分で料理や洗い物をしていると、汚れるのはたいてい胸あたりで、調理台より下はそうそう汚れない。なので、あえて胸当てがないカフェエプロンを使う理由はないのだけど(そもそも胸当てのあるエプロンも使ってないけど)、意外とカフェエプロンを家庭向きに売っているところがあるんだよね。ということは、需要があるということなんだろうなあ。
確かに、お客様をよんだときなどなら、カフェエプロンならつけたまま台所を出てもさほどおかしくないので、ファッションとしてならわからんでもないけど。普段遣いとしてはどうなんだろう。
幼稚園の手作り品バザーでも、カフェエプロンを多く置いていて、けっこう売れてる。胸当てのあるエプロンはあまり置いていない。これは作る側の都合もあるだろうが。形的にも布の量的にも、胸当てがないほうが安く作れるし作るのが楽だからね。
もしかして、世間の人は、料理や洗い物をすると、胸はほとんど汚れなくて、腰あたりが一番汚れるのだろうか。前から謎なのだ。

専業主婦でも一定金額の自分名義の普通預金をもて

突然思い出した、父の教え。
「専業主婦でも、自分名義の普通預金口座をもって、100万円くらいは使えるお金を必ず入れておけ」
もし、家計のお金などが夫名義の口座だけしかないと、不慮の不幸の場合、届けが出るなり相続のため即刻口座が凍結されてしまうので、葬式代や普段の暮らしのお金にも困ってしまうから、だそうな。(実際に体験したそうだ。自分の両親のときに)
もちろん、すぐに現金化できない資産をいくらもっていて、この場合は意味がない。

お針箱の中身は長持ちする

今、日常的に使ってるお針箱は、小学校の家庭科が始まるときに学校で一括購入したもの。つまり約30年前のもの。
こういうものはそうそう壊れないので、木でできた針箱など、何十年も同じものを大切に使っている人も少なくないだろうけど、小学校の教材レベルのものでも長持ちするものだなぁ、と妙に感心している。
中身も多くがその時に一括購入したセットの中身のまま。さすがに糸や針などの消耗品は変わっているけど、でも、あまり使わない赤い綿手縫い糸はついこの間までまだ残っていた。指貫などは、大切にとっておいてよかったと思っている。突然思い立ってキルティングに挑戦したりしているのだが、この小学校で買った皮の指貫が便利。


指貫といえば。
この小学校のお針箱には、くけ台・引っ張り器を入れる専用の区画がついている。
当時の小学校レベルの家庭科では、運針の練習をして雑巾を縫ったり(その時に短針・長針2種の指貫の使い方も習った。教科書に載っていた)、エプロンを縫ったりするくらいで、このくけ台とはいったんなんぞや? 何に使うんだ? と思いつつ、そのまま卒業したものだ。
その謎が解けたのは、中学に入り、家庭科で浴衣を縫うときであった。
なるほど、くけ台ってのはこういう時にこうやって使うものだったのか、とすっきりした。おかげで収納も楽だった。つまり、30年前の小学校教材のお針箱は和裁仕様だったということなんだな。ボビンを入れる専用の区画もあったけど。
そのくけ台は壊れてしまったので随分前に捨ててしまったけど、こういうのって、意外とこういうところで勉強しないと日常生活ではなかなか覚えないことでもある。今どき、洋裁道具はいろいろ見るし、手芸屋あたりでも普通に見るけど、和裁道具はなかなか見かけないんだよねぇ。


実はうちのお針箱の中で一番古いものは、箱自体ではなく、しろも(しつけ糸)である。
この浴衣を縫うときに、しろもがいる、という話をしたら、母が自分の針箱から「もう使わないから」とくれたもの。カセになっている大量のしろも。母の針箱に入っていたものだから、いつの年代物かわからない。私もそうソーイングするわけではないので、使っても使ってもなくならない。しかし、しつけ糸なので、しょうが抜けて使えなくなる、というものでもない。下手すると娘が家庭科をやるようになったら「はいこれ、しつけ糸」と渡すはめになるかもしれない。
考えてみれば、100年以上前のアンティークな布ものって和洋問わずあるわけで、繊維って丈夫なんだよねぇ。

プリキュア5シリーズが終わった

昨日、「Yes!プリキュア5GoGo」の最終回。
最終回自体は、まあ、後味の悪くない終わり方で、こんな感じかな、まとまったな、という印象だった。キュアローズガーデンを受け継いだことで、5人はずっと一緒にいることになり、ここを拠点にすることで、ココたちの世界と別れることもなくなり。
そこまでは言及されてはいないが、のぞみは正式にガーデンの後継者となったことで、将来ココのお嫁さんになる道が開けたともいえるね。
ブンビーさんも含めて、めでたしめでたし。うちの近所にあったら、早速掃除にきてもらいたいものです。


以下、ぶちぶち不満?を言う内容なので、「続きを読む」に。

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天気予報は

昔は、「天気予報」といえば「当たらない」の代名詞だった。
なんとなく予測がはずれたり、思ったことと違うことが起こったりしても、「まあ天気予報みたいなもんだしな」と自分を納得させたり。
天気予報ですらよくはずれるんだし、という感じだったかな。
今では「天気予報」は基本的には当たるもの、という感覚だ。それだけ精度があがっていて、多くの情報と分析によって細かく的確な予測ができるようになったのに加えて、降水確率というやつが「当たり」を増やした。0%と100%以外なら、降っても降らなくても「当たり」だから。
いずれにしろ、今の「天気予報」はかなり信頼できるやつだ。
私のほうは、相変わらず当たらないことだらけだけれど。人間用アメダスとか人間観測衛星ひまわりとかあれば当たるんかな。

書いてはいる、だが伝えない

年が明けてからずっと書いてないな、と思いきや、けっこう書いてる。
書いてるけど、消している。
ここだけでなく、mixiの日記とかマイミクのコメントとか、2chのレスとか、ちょこちょこ書き上げては、書き込まずにやめてしまっている。
書くことだけで満足しちゃってるのか。
書いたものをオープンにすることにあんまり意義が見いだせなくなってるのか。
あるいは書くものをオープンにすることになんとなく壁ができてしまってるのか。
なんかそんな感じ。


話し言葉の場合、「やっぱりやめよう」と中断できる段階は1つだけ。頭で考えたあと、口で出すかどうか、のところ。口に出した瞬間、相手にはもう言葉が伝わっている。
書き言葉の場合、2段階ある。1つめが、話し言葉と同様、頭から文字になる段階。2つめは、その書かれた文字、文章を相手に見せる段階。
だから、昔から、書いた手紙は一晩おいて、翌朝読み返してから封筒に入れろ、というんわけね。
ま、それで、やっぱりこりゃなんだな、と思えば、くしゃくしゃにまるめてゴミ箱行き。PCなら、さくっとキャンセル・削除ボタン。


書くことは面白い。書いた言葉は、明らかに自分の体から外に出ていて、独立した存在になっているけれど、でもまだ公的なものにはなっていない。生霊みたい?
だから書くことが好き。自分の書いたものを読むことも好き。自分のようなのに自分じゃない何かと出会うことができる。


これはとりあえず公開にしてみようっと。リハビリリハビリ。

なんとなく、なにげなく、年を越える

昔は、年を越すとき「よっこらしょっ」という感じだったなあ。
クリスマスを越すと、さあ今度は年越しだぞ、という感じで、いくぞいくぞ越すぞ越すぞ、と気合を入れて、大晦日に向かって(勝手に)盛り上がって、「ゆく年くる年」でさぁーいよいよだ、よしいくぞっ! よっこらせっ! 越した! ってな感じだった。
学生時代くらいまでは、そんな感じだったかなあ。


いつしか、年を越すのも「ひょい」と足どり軽く、さくっと越すようになっていた。
新年から店もあちこち開いているので真剣に年末年始の食べ物を用意する必要もほとんどない。お節をたくさん用意しても子どもはほとんど食べないので、気分程度に。テレビだって紅白以外にいろいろやっているし、それ以外にもゲームやらネットやら時間の潰し方はいくらでもある。
いつもと変わらず、いつもとほとんど同じように、年を越すようになったなあ。


もともと、年が変わるということ自体、人間が勝手に決めた線なんだから、人間がそのつもりで環境を整えなければ、別に他の時間と変わるところは何もないわけだな。
でも、やっぱりね、自分にとっては、線が薄くなるのはいいけれど、線がなくなっちゃうのは嬉しくないなあ。完全に消えてしまうことはないだろうしな。