深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

明示的拒絶

はてブ現象 - jkondoのはてなブログを読んで思い出したこと。
なお、元記事の主旨とは直接関係しないので、トラバは送らない。


中学・高校時代、電車通学をしていた。よくある話だが、下校時は仲のよい友人グループで一緒に下校し、同じ電車に乗って帰った。自宅の場所はもちろんバラバラだから、途中の乗換駅で一人抜け、二人抜け、とだんだんとバラバラになりながら帰る。それでも、最初の乗換駅までは、学校の最寄り駅から15分ほどあった。
下校の時刻ごろはラッシュ時でもないので、ゆったりと立ちながら、たわいもないおしゃべりをしながら帰ったものだ。


学校のそばに、当時としてはかなり大きな本屋があった。我々はよくその本屋に立ち寄っては、コミックやら雑誌やら文庫本やらその他の本やらを買って帰った。自宅の近くではなかなか見かけないような本もあったからありがたかった。
そうして本屋に寄って帰るとき、一人だけ、電車に乗った途端に購入した本を読みだす子がいた。一緒に帰る集団は3〜5人くらいで、日によって集団の構成も変わる(部活などの関係で)のだったが、そういう行動をするのはその子一人だけだった。
私はそれが不満で仕方なかった。どうしてなのか、納得できなかった。
なんで、わざわざここで本を読みだすんだろう。楽しみにしていた本だから読みたいのはわかる。しかし、みんなで少ない時間を楽しんでいるのに、その15分がなぜ待てないんだろう。別に帰宅してから本が読めないほど忙しい子というわけでもない。みんなと別れてからもまだ電車に10分くらい乗っていくはずだし。その時はどうせ一人なんだから、思う存分読めばいいじゃないの。
他の子も不愉快に思っていたのかどうかは知らない。私も彼女に「本読むのあとにしたら」と言った記憶はない。いや、軽く1、2度は言ったかもしれないが、少なくともきつく言ったことはない。なんとなく、そうは言うべきではない、と思ったからだが。しかし、内心の不愉快さはずっとあった。


今から思えば、なぜ不愉快だったかは分かる。
私にとって、その15分のおしゃべり時間は限られた貴重な時間だった。1日の生活の中で、友人とおしゃべりできる時間はごく限られている。それだけの時間では自分には物足りなくて、本当はもっともっと一緒にいたかった。私のほうを向いてほしかった。せめて一緒にいられる時間はいろいろ話したかった。
しかし、彼女からしてみると、それはどっちでもいい時間だった、ということなのだろう。友人と話す時間でもいいけれど、読みたい本を読む時間でもいい。少なくとも、新刊を手にした直後は、新刊を読む楽しみ>友人と話す楽しみ、であったから、そのように行動していただけのことだろう。たまたま帰る方向が一緒なので固まって下校しているだけで、特別時間を共有しているという意識はなかったのかもしれない。
そして、そういう彼女の行動を見る私は、「あっそう、たった15分も待てないなんて、私より本のほうが重要なんだね! 私と話したくないんだね!」と感じていたのだ。
大人げない、とは言いなさんな。リアル中学生だ。大人げなくて当然だ。


私的な関係性の中(リンク先記事でいうなら、家族で一緒にいるときにネット活動をすることに対して不快に思う例)で、時間や空間の共有を求める気持ちは、相手に対して「(今一緒にいる)自分のほうを見てほしい」という欲求から生まれる、のだと思う。この点、電車の中での他人の携帯やゲーム機の使用に対する違和感とはかなり異なるものだと思う。
今一緒にいる(時間と空間を共有している)にもかかわらず、自分のほうを見てくれない、わざわざその時間・空間を抜け出して別のところへ目を向けているというのは、かなり恣意的に拒絶している態度ともとれる。頭の中で他ごとを考えていても、外からは見えない。態度に出す、相手から見える形の行動に移す、というのは、そういう意思表示ともなる。
……と見る側からは感じられるのではないか。かつて、本を読む彼女に不快感を覚えた私のように。
リンク先の話でいえば、その家族は、一緒に映画を見る時間を共有したい、というほど大層なものではなく、明示的に家族に対して背を向けてほしくない、自分を拒絶してほしくない、ネットの向こうにいる他人でなくて今この場にいる私を(表面だけでいいから)尊重してください、という、単なる態度程度の話なのではないだろうかと。
そうでなければ、トイレからアクセスしていたらもっと大変な喧嘩になるんじゃないのかな。


話がまとまらないので、おしまい。