深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「美しき水車小屋の娘」と聞くと

大抵は美しい娘を想像するだろうな。
「汚い水車小屋の娘」だと、汚い小屋を想像する。
「醜い水車小屋の娘」だと、醜い娘を想像する。
汚いは物に、醜いは人間を含む生物に使われやすい形容詞だという認識がある。


かといって、美しいという形容詞が建造物でなく人間に使われやすい、というわけでもない。
「美しい城の王女」だと、美しい城を想像する場合もあるし、美しい王女を想像する場合もある。
美しい水車小屋というものは認識しにくいが、美しい城はあり得る、と考えるからである。
いわゆる固定観念


みにくいアヒルの子」だと、雛が醜いと思い込むけど、醜い親鳥から生まれた普通の雛でもおかしくはない。むしろ、形容詞は形容する名詞のできるだけ近くに配置する、という原則からいくと、親鳥が醜いほうが正答に近いことになる。
たまたま「みにくいアヒルの子」という童話を知っているから雛が醜いと思いがちなだけ。
いわゆる固定観念


こういう固定観念から抜け出すことは極めて困難だ。
固定観念は、それぞれの個人の経験や知識からできあがっているから、完全に無にすることはできない。


固定観念の上で、ものを考えたり、議論したり、なにかを肯定したり、また否定したりしている。


【追記(2007.1.20)】はてなポイントを初めて送っていただきました。こちらの記事への関係かと思われますので、ここでお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
本来はご本人へ直接申し上げるべきなんですが、ブログなどを見ても連絡先が不明だったようですので。不躾で申し訳ありません。