深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「きたなさ」を見せるかどうか

人は、内面について、100%「きれい」でいるなどあり得ない。多かれ少なかれ、心ばえの「きたない」面をもっている。
けれどまあ、モラルとか見栄とかルールとか思いやりとかバランス感覚とかいろいろあって、「きたない」面はあまり他人に見せないようにして暮らしている。開き直って「きたない」ところをあからさまに出しているように見える人でさえ、すべての「きたない」面を出しているわけではなく、どこかどうしても表に出せない部分をもっている。
100%「きたない」ってことも、またあり得ない。


要は、「きたなさ」をどこまで表に現すか、の程度の違い。
もう一つは、どこでなら「きたなさ」を出していいのか、という場の認識の違い。
なのに、「きたなさ」を現している人に対して「そんなことを言う(する)とは、お前はなんてきたない奴だ」と言ってしまう場合が、しばしばあるような気がする。
「きたなさ」はあって当たり前、ただそこで見せるかどうかの違い。


この場でそんなきたないものを見せないでくれ、という人もいる。
この場だからこそ、きたないものを見せられるんだ、という人もいる。
そこのずれがあるので、衝突が起きる。