深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ほっこり、さっぱり

しばらく前に「ほっこり」という言葉が苦手、という話が発言小町であった。
ほっこりが苦手 : 生活・身近な話題 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
個人的には「ほっこり」自体は嫌いではないけれど、使う場面によっては強い違和感を覚えるときがある。
例えば、単に「ほっこりが好き」とか、そういう話なら別にどうということはない。しかし、「ほっこり」に妙な付加価値をつけているような文脈だと気になる。「ほっこりっていいでしょ」「ほっこりだから素敵でしょ」という感じの。
妙な付加価値をつけるための造語、あるいは以前からある言葉に対して別の意味をつけるやり方、というのは、往々にして、あまり評価されていないものに対してその言葉をあてはめることで、実は評価されるものなんだよ、という価値の逆転を意識している場合があるように感じるのだ。
「ほっこり」については、私から見ると、野暮ったカワイイ、とか、田舎っぽカワイイ、という感じである。ここで言うカワイイは、本来の「可愛い」ではなく、エロカワイイなどと言う時に使うような漠然とした肯定的表現だ。そういうひなびた感じ、洗練されない感じ、クールだのシャープだのビビッドだのの対極にある感じ、というものを好む人はいて、それはそれで珍しくない。のだが、「ほっこり」という言葉でまとめてしまうと、急にそういう野暮ったさ、洗練されなさが逆転してよい意味のようになってしまうことに、違和感を感じるのだ。野暮ったいのが好きな人はそれでいいが、「ほら見て見て、野暮ったいのってこんなに素敵なんだから」とわざわざ言うほどのものではなかろう。と思ってしまう。
個人が使うのはまだしも、雑誌や広告などでやたら「ほっこり」が使われていると、何か盛大なごまかしにあっているような気がしてしまうのであった。


話はころっと変わるが、私がどうしても好きになれない言葉は「さっぱり煮」とか「あっさり煮」とか「こっくり煮」とか、「○っ○り煮」という言い方。煮物だけじゃなくて「さっぱり炒め」など、他の調理法にも応用されている。この手の言い方は、昔はなかったように記憶するけれど、料理レシピ雑誌などで近年見かけるようになってきた。
この言い方のどこが嫌かって、その料理について詳しく説明しているようでいながら、ほとんど情報量がないことだ。印象として、味が濃いめか薄いめか、程度を表現しているのだろうが、そもそも味の濃い薄いの感じ方は個人差が大きいので、「さっぱり煮」を作ってみたけど味が濃いじゃん、というような落差がどうしても出てきてしまうのである。まだしも「味噌煮」とか「醤油煮」といった調味料名をつけてくれたほうが(これは古典的な命名法だ)味の想像がしやすい。そうでなければ「ジャガイモとニンジンの煮物」など、材料名だけ入れてくれたほうがすっきりする。味について入れるなら「甘辛煮」などのように具体的な味を入れてくれるほうがずっとよい。
自分なら、飲食店に入って「○○のあっさり煮」と書いてあったら、まず注文しないだろう。出てくるものの味が想像できないうえ、出てきたものが(自分の舌にとって)あっさりしてなかったら、がっかりするもの。単なる「煮物」なら、少なくともがっかりはしなくてすむ。