深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「ゆとり教育」で見えてきたのは

ゆとり教育」って、思えば、時間的および頭のゆとりを作って、そのゆとりのできた時間を「ものを考える(思考力を育てる)」ことや、「学校ではできない体験をする(生活力を育てる)」ために使おう、という考えだった。はずだったように記憶するけど合ってるだろうか。ちと自信がない。
その思惑どおりにうまく進んでいれば、一定の学年までに覚え込む知識に関しては少なくなるかもしれないが、そのぶん思考力や生活力は増えるはずだった。
が、結局、そうはならなかった。覚える知識は減ったが、思考力は減ったか、あるいはせいぜいよくても、横ばいで増えていない。生活力については、今のその世代が生活力旺盛になったとはあまり思えない。


高校受験はまだしも、中学受験には、かなりの思考力が試されるらしい。
単純に基礎的なことを知っているだけでは足りず、その先、いかに基礎的知識と能力を使い回し、より複雑な問題を解きあかしていくのか、そこが肝心だということで、中学受験系の塾や通信教育では、積極的にそういった思考力を使わせる問題を出しているようだ。
また、小学受験では、ペーパーテストのある学校もあるが、面接や行動観察などで、普段からの行動や性格などを見られる学校もあるようだ。家でお手伝いをしているか、親とよく関わり合っているか、さまざまな体験をしているか、などもそのうちに入るもよう。つまり、生活力。
皮肉なことに、「ゆとり教育」で実現したかったことは、その対極にあるように見えるお受験・中学受験の世界で重視されていて、それにチャレンジする子どもたちは、知識だけでなくそういった思考力・生活力もまた身につけるように学校外で教育されている、ということになる。


それじゃあ公立中学の子に比べて私立・国立の子たちがみな思考力や生活力において優れているかというと、そういうわけではない。公立にも優れている子は当然いる。
公立の優れている子はどうしているかというと、ゆとりの時間で塾に通うなり、さまざまな体験に興味をもって自ら出かけたり、自学するなりしている。少なくとも、学校で勉強するだけでおしまい、ということはない。
してみると、「ゆとり教育」で学力が低下したのは、結局学校以外ではなにもしない子、ってことになるのだろうか。


自分が学生のころはまだいわゆる詰め込み真っ盛りだった時期だけれど、予習復習は必ずやる、というのは口を酸っぱくして言われていて、当然宿題もそのうちに入るわけで。自宅で学習する、という基本があったし、それは今でも変わらないはずなのだ。
進学塾はともかく、補習塾はよく考えれば自宅学習の一種である。学校で勉強してわからなかったことを帰ってからやる。これから勉強するところを予習する。簡単ではないにしろ、家でできることを、塾でやっているにすぎない。
塾に行かないなら、自宅で自分で予習復習をすることになる。その場合、本人だけで手に負えないところがあれば、親がサポートすることが期待されているということになる。今の小中学生の親は、特別な事情(外国人であるなど)がない限り全員義務教育を受けているはず、しかも現在の学習指導要領よりも内容の多いはずの教育を、というわけだから、基本的にはサポート可能なはずだ、というわけ。
しかし、現実にはそうはいかないのもまた実情なのだけど。


昔から、「学校さえ行っておけばいい」わけじゃないことには、変わりがなかった。なんらかの形で、親は子どもの教育に積極的に関わらねばならない。塾に行かせる経済力がないなら、声かけする手間と親自身の頭でサポート。親に時間の余裕がなければ、経済力をもって塾に行かせる。どちらもなければ……それは厳しい。なにもせず放りっぱなしでうまくいく、なんてのは、そりゃやはり甘い話だ。勉強に限らず。どんなに子どもの地頭がよくても、使わなければ何にもならないし、往々にして子どもは甘い誘惑に弱い。高校受験を前にするくらいの頃*1になれば子ども本人が目的を見いだしてやる気を見せることもあるが、そこに至る前は、自分ひとりで誰にも応援されずにやる気出してほしい、なんて思ってもまず無理だろう。


もしかしたら、と思うけれど、「ゆとり教育」がうまくいかなかったことで見えてきたのは、自分の子の勉強について関心のない親、あるいはさまざまな理由で関われない親が予想以上に多かった、ということなのかもしれない、とちょっと思う。

*1:中学受験をする場合は、それが目的になって自らやる気を見せる子が多い。年齢ではなく、目に見える目的ができるかどうか、が重要なようだ