深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

悪意について。悪意とは。

誰かに殴られたから、殴り返した。この殴り返したくなる感情は、悪意ではない。殴られれば怒ってやり返したくなるのは当然。
別に何も相手から危害を加えられてもいず、相手に対して怒りも感じていないのに、その相手を積極的に傷害してやりたい、と感じるのは、悪意だろう。


悪意が生ずる、悪意が成立するのは、相手あってのことだ。自分ひとりの中でどろどろとした感情を練り上げても、それが別の誰か(単独の人物とは限らない)に向かうベクトルを持たない限り、悪意という形はとらない。
一方、それゆえに悪意は表現形で判断されるものであり、ある行為について悪意の有無が取り沙汰されることがある。もともと悪意があったかなかったか、ではなく、表現形が悪意的であったかなかったか、のほうが重要である、という観点が存在するわけだ。


なにより、なぜ悪意は存在するのだろう。
幼い子どもに悪意は存在しない。子どもは無垢だ、という意味では全くない。子どもが他者に危害を加えることはしばしばあるが、それは怒りや不満に基づくものだ。だから子ども本人にとっては、相手を叩いたり罵声を浴びせたりすることは自感情の表明であって、それなりの理由と根拠がある。これは悪意とは異なるものだ。
しかし、早い子は5〜6歳頃から、おおかた小学生以降になると、これは悪意である、と思われるものが見られるようになる。最もわかりやすい形は、いじめだ。
この萌芽がどこにあるのか、に興味がある。
上に書いたように、悪意の発露は相手を必要とする。これは、悪意をもつためには、他者の存在を認識することが必要だ、と言い換えることもできる。すべての感情が自分の中で終始するうちは、悪意は表れない。悪意は、他者に対する働きかけの一型でもある。
そのように考えると、悪意もまた、他者を「自分ではない者」ではなく「独立した」他者として認識できるようになる、という成長の過程にともなって生ずるものであるように思われる。悪意が全くないということがもしあれば、まだそこまで成長していない、という場合もありえるのだろう。


悪意の存在はポジティブに考えるものでは決してないが、存在そのものについては否定できないものだ。
大多数の大人は、悪意自体は存在するものとして、それをどうコントロールするか、どのようにそれから自分を守るか、という視点でいるものと思う。「それは悪意か」「いや、悪意ではありません」「いいや、こちらから見たら悪意に見える」などというやりとりには、あまり意味がないような気がする。