深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

4冊の伝記

小学3〜4年の頃だっただろうか。父から初めて、4冊を伝記を買ってもらった。
それ以前に、簡単な伝記風読み物の載った絵本のようなものは読んだことがあったが、1冊で1人を扱い、イラストも少ない本格的な子ども向け伝記を買ってもらったのはそれが初めてだった。
今調べてみると、ポプラ社の「子どもの伝記全集」のうちの4冊であったことがわかる。こんなことがネット上で簡単に調べられるようになったとは、いい時代になったものだ。


父が買ってくれたのは、「キュリー夫人」、「コロンブス」、「豊田佐吉」、そして「キリスト」であった。選んだのは父だ。
今からみると、このラインナップは興味深い。当時小学生であった私に何を読ませたかったのか、何を与えたかったのか、が、今になると見えてくる。親が自分の最初の子どもに初めて与える伝記は、子どもへのメッセージでもあった。もちろん、子どものほうはそんな難しいことは当時は皆目分からないというか、考えもせず、うおー4冊も買ってくれた、嬉しいー、とむさぼり読んだだけだったけども。


この4人のうち、ちょっと格が落ちるんじゃない? と誰でも思いそうな豊田佐吉翁が選ばれているのには、祖父の代からつながる家庭の事情というやつがあり、極めて個人的理由であるはずなので、横においておく。読んだ中身は面白かった。この中では唯一の日本人であったこともあり、読みやすく、親しみがわいた。時代が新しく、関係者にもまだ存命の人が多く、取材も可能であった時期だから、エピソードなどの内容もけっこう濃かった(小学生の視点からだが)ような記憶がある。ものづくり系の話だから、今読んでもたぶん面白い。
コロンブスを選んだのは、父自身が海、船、冒険が大好きであるからだろう。私はあまりそういうタイプではなかったから、ふーん、そうなんだー、という感じで読んだだけで、あまり感銘は受けなかった。インドを探しに行ったのに見つかったのはインドじゃないじゃん! みたいなツッコミも感じたっけ。
キュリー夫人は、ある意味理系女性の鏡みたいな人だ。この通りにガンバレよ、なんてのは無茶な話だが、父としては、女性でこのように理系の研究に進み、研究を貫き通し、偉大な発見をした人がいるんだよ、男性だ女性だ、なんていうのはこの世界では関係ないんだよ、というメッセージとしての贈り物だったのではないだろうか。私が息子ではなく娘だったからこその選択だと思う。当時はまだ放射能とか原子力とかいうものの発見の重大さをよく知らなかったので、へぇーなんかすごいんだな、という感じだったけど、放射能原子力についてある程度の知識をもって読むと、よりその重さがわかったんじゃないかな、と今からすれば思う。
その後の自分の進んだ方向を考えても、「キュリー夫人」にこめられたメッセージは受け取っていたかな、と自分でも思う。


しかし、今私が思うに、最もこの中で自分に影響を与えたのは、「キリスト」だったんじゃないだろうか。
キリストの伝記というのは、つまり、新約聖書の四伝に載っているイエスの各種エピソードをつぎはぎした、まあようするに子ども向きの新約聖書物語だ。
小学3〜4年とはいえ、その本の中に書かれている数々の魔法のような奇跡が本当にあったんだ! と頭から信じこむようなことはなかった。しかし、神がいてそのような人がいて(と小学生は思う)、キリスト教というのができて、世界の多くの人がそれを信じるようになって、そして今も信じているんだ。という認識はした。
父はクリスチャンではない。他に特別な信仰もない。よくある葬式仏教の人だ。他の親族も、母も母方も、同様である。
その父が「キリスト」の本を選んだのは、どのような意図だったのか。
今考えると、これが欧米世界のベースにあるんだよ、日本にいるだけではぴんとこないが、世界中にこれがあるんだよ、というメッセージだったのではないかと思うのだ。
当時は高度成長期で、日本が目指すのは欧米であった。少なくとも、アジアの各国は日本より進んでいるとは到底いえなかったし、アラブは派手に係争していた。アフリカはもっとすごかったはずだが日本にその詳細は伝わってすらこない。とにかく、欧米だった。
そのために、キリスト教に関する知識は必要だと、父は考えたのだろう。
ここから始まって、私は、宗教が当たり前に存在し、宗教が文化のベースになっている世界があり、むしろそういう世界のほうが大きいのだ、ということを知った。
宗教は決して忌避すべきものなどではなく、宗教を知ることは面白いことなのだと感じた。
そこから始まって、キリスト教だけでなく、仏教、イスラム、その他の種々の宗教に対し、肯定感をもつようになった。自分自身は特に信仰はもっていないが、信仰をもつ人が世の中にはたくさんいて、その信仰自体は否定すべきものではない、という。宗教のように見えて理屈が間違っている「カルト」は存在するが、良くないのはその間違った理屈であって、信仰の対象であって、また信仰する対象を間違えた判断の誤りであって、信仰する心自体ではない。
そういう意識をもつようになった、その基は、この本にあったと自分で思う。