深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

自分の内の快感・不快感と向き合う

生まれてきたからには、波はあったとしても、死ぬときに全体を均したら「あー、楽しかった。いろいろ凹むときもあったけど、まあ平均したら楽しかったかなー」と思いながら死にたい。
などと思うので、自分の行動・言動の判断基準の重要な一つは、自分が快であるか、である。
単純に自分の欲望のままに自分勝手に進めば快かというと、そんなわけがない。自分の都合を押し通したら、周りの人間が嫌そうな顔をする。あるいは、嫌そうな顔をする前に、自分が「相手、嫌だろうなぁ」と想像してしまう。自分の都合と、他人の都合(と自分が思っていること)とを天秤にかけたり、山と谷を頭の中で均したりしつつ、自分が一番総合して気分がいい場所を探す。
だから、必ずしも自分が第三者的に利益を得るところが自分にとって快な位置とは限らないし、逆に、他者から見たら「どうしてあんたそんなふうで平気なの?」と思えるところが自分にとって快な位置であることもある。例えば、引きこもりになっている時、つまらなそうだし落ち込んでいるようだし、なんとかそこから出てきなさいよ、と第三者は言いたくなりがちだけど、本人にとってはそこがその時は最も快な位置であるというような。私自身は引きこもりになったことはないが、例えて言えばそんな感じかもしれない。


自分自身の内にある快感と向き合うためには、同時にその対立である不快感と向き合うことも必要になる。
この両者は、必ずしもどちらかが多ければ対立側が多い、とは限らない。とても快だけど同時にすごく不快、という場合もある。単純なところで言えば、すごくおいしいものを食べてる時に、でもこれ絶対太るよねびくびく、と思ってるとか。
その反対もある。不快じゃないけど、快でもない。これは、自分としては心に波風が立たず安定しているように感じるので、若干、快寄りのように感じやすいのだけど、実は異なる。ゆっくり内心を追究していってやると、実は「つまらない」と感じていることがわかる。「つまらない」は不快寄りのように感じる。快でも不快でもない中庸なので、どちらにも転ぶし、どちらに転んでも大した変化がない。


この話はもうちょっと続くが、時間切れなのでまた項をあらためて今度続きを書く。


【追記】(2007.8.28)
続きを書いた。リンクはこちら。→自分の内の快感・不快感と向き合う:続き - 深く考えないで捨てるように書く