自分の内の快感・不快感と向き合う:続き
前回の記事の続き。
快感・不快感というのは、理屈や論理ではなく、感情あるいは感覚だ。時として、思想や倫理や事前の思惑とは全く別の次元で生まれてくる。
喜び、悲しみ、楽しみ、怒り、その他の感情は、意外と現実の現象とリンクさせやすい感がある。感情自体は自然に不作為に生まれるが、自分でも、こういうことが起これば嬉しい、こういう事柄には怒りを感じる、というような学習が比較的容易だ。
快・不快というのはもうちょっとプリミティブで、感情というよりは感覚に寄っている。思いもかけないことでスカッと心地よくなったり、逆にこんなことで? と思うようなことでひどく不愉快になったりすることもある。そのぶん、こういう状況なら快、こうなら不快、と予測することが比較的難しいように思う。
そのぶん、今現在自分は快に感じているのか? あるいは不快に感じているのか? ということを、折々に自分自身に問いかけながら、心の中を探索しながら、自分の心のステータスを観察することになる。
自分の心のステータスを観察する、ということは、とても面白いのだけれど、場合によっては困難を感じたり、そのこと自体が辛く感じることもあるかもしれない。
なんでこんなことで不快になってるの自分? と混乱したり、こういう時に快感を感じるのは本当はまずいでしょ? と自分を責めたり。そういう場合もある。自分自身の感覚から目をそらしたくなる。
そんなときは、目をそらす。そのほうが快だから。
どうしてもしなくちゃならないことじゃなければ、さっと避けたり、とりあえず横においてまた今度ね、にしておけばいい。ただ、自分がその時、快を感じた、不快を感じた、ということだけは覚えておく。そうすれば、どうしてそう感じたんだろう? ということを後で考えることができる。考えることでどうにかなることもある。
快・不快を指標にすることは、文字通り自己中心的である。自己が認識の中心となっている、という意味で。
だからこそ、自分の内心とがっちり向き合う必要がある。反倫理的であったり、規範を逸脱していたりするところは、誰にでも多少なりともある。そこまでいかずとも、内心に一遍の黒さも持っていない人はまずいないだろう。もちろん自分もそうだ。
自分で自分を観察し判断するときに、理論理屈はあまり役立たない。結局、自分が事前承認した理論理屈しか使わないからだ。では何に頼るか。
私は感覚に頼ろうと思う。まず感覚に頼る。なにを感じるか、感じているかを探る。理屈に頼るのはそのあとだ。その段階でこそ理論理屈は役に立つ。理屈で補完、補正することはできる。理屈を考えることで、自分自身の快・不快の度合いが変化し、他者とすり合わされてゆく。そこでまた自分を観察する。そしてまた変化する。感覚とはダイナミックなものだ。
だから、感情や感覚を指標にすることを恐れる必要はないと思っている。常に変化するものであることを忘れさえしなければ。むしろ、過剰に排除することのほうに懸念がある。
「まず私は〜〜を快/不快に感じました」。とりあえず、始めるのはそこから。