深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「死とは情報化である」

「死とは情報化である」

昨日の日経夕刊のタイトル下コラムで見た言葉。
30代で亡くなったミュージシャンの言葉として紹介されていた。誰のことかと思って検索してみたら、「どんと」という人のことだと分かった。
情報元の記事は無効なURLです。この人はバンド「ローザ・ルクセンブルグ」のボーカルなどをやっていたそうだ。かすかにバンド名には記憶があるが、曲を聞いたことはない。
死因は脳内出血だそうなので(情報元はてなキーワード)、慢性の病気で自分の死を見つめて言った言葉ではなく、日々の暮らしをする中でふと思ったことなのかもしれない。


生きている時でも、けっこう情報化された自分というのはあちこちに存在している気がする。
こうして書いている言葉・記事たちもそうだし、自分の話した言葉、他人からの見た目や印象、他人の中に残る行動・言動の記録や記憶などは、それぞれ、自分自身ではなくて断片的な情報だ。
そういった情報の数々と同時に、生きて考えて感じている自分自身が存在しているわけだが、自分が死んで、数々の情報の元が消失したら、残りは発信された情報だけになる。
「死とは情報化である」というよりも、「死によって情報のみが残る」という感じかなあ、と思う。


死ぬまでもなく、自分があちこちで情報としてのみ存在していることに気がつく。
というより、自分というものが包括的に存在しているのは、実は自分自身の中でだけなんだな。
その逆もまた真なりで、自分以外の人間は、自分にとっては情報としてしか存在し得ないということになる。
これを突き詰めすぎるとセカイ系になってしまうなあ、という気はするので、自分にとっての他人については考えすぎずに思考停止しておくほうがいいかなと思うが。


ともあれ、他人の中では、自分は常に情報として存在しているのだ、と自分で認識しておくのは悪くないと思う。
他人の目に写る自分を見て、ああ、自分は誤解されている、と落ち込むよりも、そうか、○○さんから見た自分はこんなふうに見えるのか、と面白がるほうが、いろいろな意味で楽しい。


【追記】(2007.3.11)
id:Marco11さんから、「どんと」の曲のご紹介をいただきました。ボ・ガンボス時代の曲です。
http://d.hatena.ne.jp/Marco11/20070121/blog
どうもありがとうございました。