深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「完璧な育児」ってなんだろう

最近、つらつらと考えているのは「完璧な育児」。
自分は完璧な育児なんてするつもりもなく、できるとも思わず、そもそも完璧な育児などというものは存在しないだろう、と思っている。
でも、どこかで、「完璧な育児」に振り回されているときがあるような気もする。
自分は子どもの能力を十分に見極めて伸ばしてやれているだろうか。子どもが何を親に求めているのか、ちゃんと汲み取ってやれているだろうか。自分の愛情は子どもに届いているだろうか、まだ物足りないと思ってはいないだろうか。
そんなことを考え出すと、自分のしている育児ということの不完全性に直面する。


子どもがやがて成長して大人になった時に、必ず「うちの親はこんなところがダメだった」「自分にとって親にはこういう点が足りなかった」という思いをするだろう。完璧な人間などいないのだから、親の人間としての欠点や、親としての不完全さをしみじみと思うに違いない。
自分もまた、思春期以降、親を一人の人間として相対的に見る目を持った。彼らの、こういうところは人間として良い。こういうところは、同意できない。そういうものが見えてくる。親への感謝や尊敬とは別に、そういうものはある。


結局のところ、自分自身の不完全性を受け入れ認めるしか道はないのだけれど、そういうやり方に対して、批判的なことを言う人もいる。
曰く、子どもに対しては全力で愛情を注げ。決して人に迷惑をかけないように、躾けはきっちりとせよ。子どもの存在の全てに責任を持て。子どもに淋しい思いをさせるな。子どもを守れ。
ひとつひとつはある意味正論。でも、頑張ってやっていても、そういうのが完璧にできないことなんて山ほどあるわけだ。
決して届くことのない至高の高みにあるそれは一種の理想ではあるだろうが、そこへ少しでも近づくために努力せよ、というのは、どうなのだろう。決して届かない努力によい評価がなされることはあるのだろうか。どれだけ努力しても結局「まだ努力が足りない」という結論しか出ないような気がするのは、気のせいか。


私のように、またおそらく世の多くの父親母親たちのように、自分が悪いと思うところは反省しつつも「不完全なりに子どもを想ってやっている、事情も知らぬ他人に何か言われても流して聞くだけ」とバランスよく思えるならいい。
しかし、そういう世間の*1言葉を見聞きして、「そんなに育児って大変なものなら、最初からしないほうがいい。自分にはそこまで完璧になんてできない」と思って子育てをためらう人や、実際に育てていて「自分はうまくやれない。こんな自分はダメ親だ」と自信喪失して精神的に病む人も、たぶんいる。


「完璧な育児」に無意識のうちに囚われて変な方向へ走ってしまう人もいる。根拠の不明な早期幼児教育などはその一例だろう。


「完璧な育児」ってなんだろう。そんなものはどこにもないのに、なぜかその幻に囚われている。それに取り込まれる者も、それを振り払おうとする者も。

*1:世間と言っているけど、少なくとも、ネットではしばしば見かけることだし、マスメディアでも見かけることだ。