日本の社会だって捨てたもんじゃない
日本の少子化対策は無策か? ( 家庭環境 ) - ちびたちとお散歩 - Yahoo!ブログ
これを読んで、思った。
私が若かった時、具体的には中学や高校、大学生の頃だが、公共交通機関で子連れの親や妊婦さんにもし会ったら、席を譲ろうとしただろうか。
たぶん、答えは否だ。
意地悪だからでも、利己的だからでもない。そういう人が立って電車やバスに乗るのは相当身体にくる大変なことなのだと、気づいていなかったからだ。
小さな子を抱っこして電車に乗っている人がいても、ああ親子だな、抱っこしてて大変だな、とは思うけれど、その重さが相当なもので、実はかなり身体にきついということまでは思い至らなかっただろう。
また、さすがに臨月近くなってお腹が目立つ人なら、ああ大変そうだなぁと思うだろうが、お腹の目立たない4〜5ヶ月くらいでもかなり身体がきついということも、大学で学び、そして実際に自分がなってみなければ、分からなかった。
お年寄りや身体の不自由な人には席を譲りましょう、ということは子どもの時から道徳として習っていても、親子連れや妊婦の大変さまでは学ばなかった。
学ばなくても、身近で見れば分かるでしょ、と思う人もいるだろうが、身近で見なかったんだから分かりようがない。というより、幼児期ならともかく、中学〜高校くらいに、妊娠や早期の育児の大変さがわかるくらい身近にそういう人(親や親族が主になるだろうが)と接することができるチャンスは、この少子化の時代、かなり少ないんじゃないだろうか。
社会が冷たいと憤るのは簡単なのだけど、自分もかつてはその「冷たい社会」の側だった。だから、「冷たい社会」の側の言い分や気持ちもわかる気がする。冷たく見える人が全て冷たい人ってわけじゃない。
「冷たい社会」というものが存在するわけじゃない。社会の中には、冷たい行動をする人もいるし、暖かい行動をする人もいる。同一人物が、ある時は冷たく、ある時は暖かく行動することも普通にある。
冷たい行動をする人=冷たい人間、というのも間違っている。行動はその人の一部を表すにすぎないし、行動の表さない部分のほうがずっと多い。
「冷たい」こと、「冷たい」人はどうしても目立つけれど、実際に暮らしていると、「暖かい」人、「暖かい」ことはたくさんある。
なにが言いたいって、日本の社会はそんな言うほど冷たくないよってこと。
実際、私は、子どもと一緒にいて、たくさんの親切や暖かい言葉や行動をいただくことができたし、いただき続けている。知人だけでなく、たまたま会っただけのまったく見も知らない他人からも。
ベビーカーひいて買い物に行ったとき、レジの人が会計後のレジかごを台へ移動してくれただけで、なんと助かったことか。子どもの落とした靴を拾った人が、そこら中探し回って返してくれたり、近所の人が赤ん坊に「かわいいねぇ」と声をかけてくれたり、エレベーターで開ボタンを押さえて先に下ろしてくれたり、走り出そうとした子どもに「お母さんが呼んでるよ!」と声をかけて止めてくれたり。そういうのだって、普通に普通にあるんだ。
むしろ、子どもがいると、こんなに暖かく接してもらえるのか、と驚いたくらい。
私も少しだけだけど、あちこちで返してる。つもり。
そうだよ。日本だってまだ捨てたもんじゃないよ。
いろいろ「暖かい」をくれた人たちのために、断固として弁護する。