深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ゴールさえ見えればどこへでも行ける

昔の話。


20代最後の夏の終わり、5年以上つきあいながらも、既にほとんどフェイドアウトしていた交際相手ときっちり別れ、身軽な身となった。
まもなく30歳になった。独り身となって淋しいというよりは、むしろそういった系統の気遣いなくどこへでも行けなんでもできる、仕事の上でも余計なスケジュールを気にせず働ける軽快さが久々に気持ちよかった。実体のない重苦しさから解放されたような爽快感があった。
しかし、一方では、30歳という年齢は一つの節目だな、という意識があったのも事実だ。もう「次」はないかもしれない、「女」としてはこれで終わりかもしれない、という覚悟もしつつあった。


正月に実家へ帰省し、墓参りをした。
父母は健在なので、祖父母らの墓である。墓に手を合わせたあと、父が言った。
「そこがうちの墓だぞ」
今手を合わせた墓の斜向かいに、まだ墓石の建っていないスペースがあった。
父は次男坊である。新たに墓を作らねばならないので、自分らの墓地を、家の墓の近くに申し込んでおいた、という話は聞いていた。そこがどうやらそうらしい。
その小さな更地をみた時に、ふいに思った。


私も、やがてここの墓に入るんだな。


うちは女2人の姉妹だけ。結婚しなければ、やがて私もここの墓に入ることになるのだろう。
そう思って見つめると、そのわずかな土地が故郷のように、安住の地のように感じられた。


これからの人生、どこへ行こうと、何をしようと、どんなに寂しかろうと、いつか私はここへ来ることができる。
どんなに立派な人生でも、あるいはどんなに惨めな人生になっても、ゴールはここだ。
その瞬間、私はどこまでも独りで生きていくことができる、と確信した。
自分の前にぱあっと視界が開け、はっきりと進む道が見える気がした。


結局、それから1ヶ月ほど後、思いもかけず、今の夫と交際をはじめることとなり、結婚し、子を成した。
夫は長男なので、私の入る墓はおそらく、現在夫の父(も長男)が祭祀を行っている夫の家の墓ということになるだろう。
また、実家の墓も、結局寺とのトラブルで、件の墓地は契約を解除してしまい、新たに供養つきの墓地を別のところで契約したらしい。当時は私も妹も家にいたが、今はどちらも長男と結婚して家を出てしまった。そんなこともあって、供養つきの墓地にしたこともあるだろう。


だが、あの時、墓地を見たときの安心感というか安らかな落ち着いた感覚は、今も忘れられない。
ゴールさえ見えれば、そこに至る過程を恐れることはなにもない。どこへ向かえばいいのか、どちらへ行けばそこに近づけるのか、それを知っているだけで、途中の道は分からなくても足どりは確かなものになる。
どんなに楽しくたって、どんなに辛くたって、いつかは平等にゴールに至る。
そのことが分かってしまえば、あとは何も怖くない。