深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「ほら、あのおじちゃんに怒られちゃうよ」

タイトルは、よく、子ども叱るときにこう言っちゃいけないだろ、と言われる典型例の1つ。おじちゃんでなくても、おばちゃん、お兄さん、お姉さん、だれでもよいのだが。
よその人が叱るって言うんじゃなくてちゃんと親が自分自身で叱れよ、とか、よその人に叱られるからじゃなくて、どうしてそういうことをしたらいけないのか、ちゃんと親が説明しろよ、とか、子どもの躾に関係ない他人を巻き込むなとか、そういう文脈で否定されるものだ。


長らく自分もそう思っていたんだけれど、いざ子どもを叱る立場になってみると、どうしてもこの言い方を使いたくなるときもやっぱりある、ということがしみじみ分かってきた。
小さな乳幼児のうちはともかく、少し大きくなってきて6歳前後になると、叱る内容が複若干複雑になってくる。「危険だからだめ」「汚いからだめ」といった直感的に分かりやすいことだけでなく、「周りに迷惑だからだめ」「他の人が困るからだめ」といった、社会的な理由で叱ったり躾けたりする内容が増えてくる。
ところが、この「他人に迷惑をかける」というのは、まだ理解するのにやや難しい年齢のようで、ようするに社会性の獲得がまだ未熟なので、自分の世界にいない「他人」が自分の行為で「迷惑する」ということがすっと理解できないことがあるのだ。年齢的にまだ抽象的な概念を理解するのに不足がある、ということもある。目の前にいない「他人」が「迷惑する」ということをうまく想像できないのだ。
そこで、具体例として、「○○ちゃん(本人)はそういうことされるといやでしょ?」という言い方を使うのだが、これがまた子どものこととて、「なんで? 私は全然いやだと思わないのに」となってしまうことがある。こうなるとお手上げだ。想像してみろ、と言われても、自分と異なる感じ方をする、しかも具体的な誰かではなく抽象的な「他人」を慮るなんて、このレベルの子どもには無理ってもんだ。


そんなとき、具体的な「目の前の他人」をとりあえず置いてみると、わりと理解してくれたりする。「そこのおじちゃんが、そういうことをするあなたを見て、いやな気持ちがするかもしれないんだよ」。こう言うと、子どもは、あ、そうなのか、と腑に落ちる、らしい。
こっちとしては、その人を悪者にしたいわけでは全くなくて、そのように表現しないと、子どもに「自分のことを、(自分の内的世界には存在しない)赤の他人が実は見ていること」「赤の他人が自分の行為によって不快になること・迷惑すること」「自分の狭い内的世界よりもずっと広い世界・社会が存在していること」をうまく理解させられないからなのだ。


まあ、もう1つは、このくらいの年齢になると、親には叱られ慣れてしまって、叱っても叱っても屁の河童、適当に流すことを覚えてしまっている、ということもあるんだけどね。特に公共の場でのマナー的なものは、子ども自身にとっては、注意を無視しても自分に実害(親から叱られるのは慣れちゃって害にすらならない)がないので、ますます流す。そういうときに、他人からの視線を意識させると、少し冷静になってくれることがある。


自分の場合、このタイトル的な言い方は抵抗はあるんだけど、たまには使ってしまう。
この場を借りて、謝っちゃう。ごめんなさい。


【追記】(2009.3.6)
自分が「おじちゃんに怒られる」パターンを使う場合の自分的ルール。

  • 相手を特定の人物に限らなくてすむ場合は、できるだけ限定を作らない。例えば、「あの人が」ではなく「周りの人が」「近くの人が」という表現にする。ただし、例えばふざけて誰かとぶつかりそうになった、などの場合は、「ぶつかられそうになった人」という限定をする。
  • 単純に「怒られる」という言い方はせず、「怒られるかもしれない」と推測表現にする。
  • 「怒られる」の理由を必ず言う。ただ、マナー関連は理屈ですっきり説明できることだけではないので、「そういうことが嫌いな人も世の中にはいて、そういう人がここにいるかもしれない」という言い方を使う場合はある。
  • これらは、周りの人に聞こえないよう、必ず子どもの耳元で小声で話す。こういう言い方が聞こえて、全く不愉快に感じない人は極めて少ないだろうから。
  • そして、この言い方は普段はできるだけ使わず、他によい方法が見つからない、あるいは他の方法を何度も試して効果が薄かった場合にのみ使う。やはりこれは「悪手」であって、使う時は自分も罪悪感があるというか、よい気持ちはしないからだ。しかし、言うことをきかないからとあきらめて投了(放置)するよりはずっといいと思っている。