深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

是か非か

「○○は是か非か」という論調がある。「OKかNGか」と言い換えることもできる。
これの答えは、基本的には「是」「非」の2つなんだが、これ以外によくある答えとして「条件付き是」というのがある。
例えば、「子連れで居酒屋は是か非か」という話なら、「連れてくること自体言語道断」という意見は「非」だし、「別にいいじゃない、人それぞれで」というのは「是」。「店の受け入れ状況によっては可」とか「個室なら可」とかいうのは「条件付き是」。


この「条件付き是」は一件「是」のように見えるが、実はベースは「非」である。
基本的にはダメ、でもこういう場合だけはOK、というスタンスだからだ。
これの対極にあたる考え方は「条件付き非」。基本的には是で、ただしこういう条件がある場合は非だよ、という順の考え方だ。
しかし、実際にいろいろ見聞きしていると、「条件付き非」の意見の述べ方をする人はあまり見かけない。
たしかに、自分で考えてみても、「条件付き非」という考え方はあまりスムーズにいかない、というか自然には出てきにくい。


考えるに、条件をつける、という意味合いは、イコール意見に制限をつける、ということでもある。自分はこう考える、しかしすべてそうと言うわけにもいかないだろうから、条件をつけて、その条件に合う部分に関しては、やむを得ず譲る。そんな思考の順序になる。
「条件付き非」は「条件付き是」の逆で、基本は肯定の意見だ。しかし、こういう場合だけはさすがにダメでしょ、という順の考え方である。こちらは、意見を譲るというより、自分個人としては肯定したいけど、すべて肯定すると自分以外のところで(社会的に、倫理的になど)問題があるだろうから、そういう面からやむを得ず否定条件をもちこむ、という感じになる。


「条件付き是」と「条件付き非」は似ているようで全く違う考え方だ。


【追記】(2008.5.2.)
「条件つき是」の例として、日本における脳死移植法。
脳死は人の死である」は現在「条件つき是」として法的に定められていて、昨今の報道の様子などを見ても、そのこと自体は大勢として社会的に受け入れられていると考えられる。
しかし、もし「脳死は人の死である」を死の決定の基本として法的に定めようとしたら、おそらく猛反発を喰らい、到底そのように決定することはできないだろう。「条件つき是」として納得している層は、あくまで基本は「非」であり、基本の考え方としては「脳死は人の死ではない」と考えているからだ。
また、このケースにおける「条件つき非」は、「脳死は人の死である。しかし、ある条件においては心臓死までは死としない」ということになる。これは現在の状況である「脳死は人の死ではない。しかし、ある条件においては脳死を人の死とする」とは全く異なるスタンス、むしろまるっきり反対の立場であることがわかるだろう。