「いいものだけを与える」ことは不可能だ
ちょっと前に、子どもに「いいものだけを与えたい」と願う親のことについて、いくつかの記事を読んだ。
こういうことについて私が思うのは、「いいものだけを与えたい」とどんなに思っても、子どもはそんな親の思うようには動かない、ということだ。すぐに、どこからでも、「よくないもの」を拾ってくる。
私が子どものころ、母から聞いた話。私は保育園に入るまでは、非常に言葉遣いがよかったそうだ。ですます調で話し、バカやらアホやらという系統の言葉も口にしなかったという。母自身がそういうタイプで、方言も貶め言葉もほとんど使わない人物だったので、そのまま覚えていたということらしい。一人目の子だったので、上の子の影響も受けなかった。
だから、保育園に入ったばかりの時は、先生にも驚かれるほど言葉が丁寧だったらしい。しかし、あっと言う間に、ごく普通に子どもが使うような、いわゆる汚い言葉をじゃんじゃん使うようになったそうだ。周りの子が使う言葉は、すぐに吸収していくものだ。母は、そんな話を、すこしだけ残念そうなトーンで、笑いながらしてくれた。
我が家では、ディズニー系はご禁制の品となっている。夫がある理由からディズニーという会社をひどく嫌っており、ディズニーには一銭たりとも払いたくない、子どもたちも極力接させたくない、と思っているからだ。
それでも、子どもらはあちこちでディズニー関連の話を見聞きし、キャクラタをかわいがる。ごく素直に「○○かわいいね」と言う。幼稚園に通い、友達と遊び、テレビを見、祖父母や親族と接している限り、全く接することなく済むわけもなくて、そして親が嫌いなもの、評価しないものだからといって、子どもも嫌いになってくれる、悪いものだと思ってくれる、という理由は全くない。
親にできることは、「いいものを与える」こと。どんどんと「いいもの」だと思うものを与え、接するチャンスをつくること。それは可能だ。
しかし、「いいものだけを与える」なんてのは無理な話なのだ。どんなに願ったとしても。
子どもはちゃんと外界で「よくないもの」、汚れやノイズを拾ってくる。いいものだけを与えているつもりになっている親は、そこを見損なうかもしれない、と思う。私はいいものだけ与えているんだから、この子はいいものしか拾っていないはず、と。
ほとんどの親は、一時は「いいものだけを与えたい」と思っても、結局そんなことは不可能で、子どもは子どもの力でいろいろなものを得て育っていく、親はその一部を担うにすぎないのだ、と悟るのだろうと思う。おそらく私の母もそうだったように。
「いいものだけを与えたい」と願う心は、確かに親心としてわからないでもない。でもやっぱり、「いいものだけ」ではなく「いいものを与える」だけでいいんじゃないかなと思うのだ。拾うも捨てるも子どもが自ら選んでくれる。