深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

無関心突出型非コミュについて


昨日話題になっていたこれをやってみた。
socioarc | 非コミュ指数テスト
結果は自分のブックマークコメントにも書いたけれど、こんなふう。

非コミュ指数: 26(レベル1/軽度非コミュ/無関心型) 無関心度だけ突出してほぼリミットまで伸びてる。

結果自体は予想通りというか、小学生時分から、大切な人々とどうでもいい人々(自分にとってコミュニケーションに労を割く意義のない人々)の区分けがはっきりしている質だという自覚があるので、まあ当然こうなるだろうなぁ、というものであった。


それはいいのだが、自分としては、それが非コミュの要素だという気がしない。
だって、それで困っていないもの。自分も(たぶん)相手も。
日常生活の中で、基本的に必要なコミュニケーションはできてるわけだ。そう苦労しているわけでもない。今は仕事をしていないが、以前仕事をしているときも、特別コミュニケーションで困ったことはなかった。むしろ接しやすい人と思われていた。
今は自分にとって要らないと思う関係(いわゆるママ友関係など)は面倒くさいのでもたないようにしているけど、それで困ることもない。娘は娘で極めて社交的に友達を作り、いろいろな友達と楽しく過ごしている話をしてくれる。ママ友つくらないと子どもが孤立する、なんてのは都市伝説にすぎない。


たぶん、私のもつ心性は、非コミュの範疇に入るのだろう。
しかし、実際の私全体は、非コミュではない。周囲から見ても非コミュには見えないだろうし、自分で自分を非コミュだとも思わない。
こういうのは、非コミュなのだろうか。それとも非コミュではないのだろうか。
最近興味があって非コミュ関係の記事をあれこれ読んでいて、自分なりに思ったのは、非コミュであるかないかの判断は自分が自分自身に対して行うものであって、他者が判断できるものではない、ということだった。ひらたく言えば、Aさんが非コミュかどうかを決定できるのは、Aさんが「自分は非コミュである」と思うケースのみであって、Bさんが「Aさんは非コミュだ」と決定することはできない、ということだ。
そういう前提で、「私は非コミュだ」と自分で決める、その動機はなんなのだろう、と思う。
同じように非コミュ的要素をもっている人のうち、ある人は「私は非コミュ」と言い、ある人は「私は非コミュではない」と言う。
id:tomo-moonさんの「アイデンティティ」ではなく、「タグ付け」 - 月がでたでた月がでたは「私は非コミュ」と言う人からの回答の一つで、id:aozora21さんのhttp://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070409/1176100033は「私は非コミュではない」と言う人からの回答の一つということになるのだろう。


なにか回りくどいことを書いているけれど、私が思うのは、このテストの分類でいう純粋な「無関心型」は、「私は非コミュ」と自分を規定するケースが少ないんじゃないかな、ということ。
無関心なのだから、他者とコミュニケーションがとれないことを意に介しない。苦痛だと思わない。だから自分自身を非コミュと規定する必要もない。他人からは「人づきあいの悪い奴」と思われるかもしれないが、自分からしてみれば「他人から見たらそうかもしれんが、自分はこれが普通だと思うがな。お前らがべたべたしすぎ」というだけ。むしろ俺様とコミュニケーションとりたければそっちが譲れ、だ。生きづらさを感じない以上、厳密な意味での非コミュ、自分で自分を規定する非コミュにはあたらない気がするのだ。


じゃあ何かっていうと、つきあいの悪い、ただの嫌な奴。嫌な奴なうえに、そういう嫌な気分をぶつけてみても全然堪えなくて、暖簾に腕押しな奴。
あ、私、実はすごーくすごーーく嫌な奴なんじゃないか? そうか、そうだったのか。いや、参りました。