少子化発言関連について草稿・続々
少子化発言関連について草稿・続き - 深く考えないで捨てるように書くの続き。
散らばった思考をいくつか。
・自分の考えの最終的な落としどころの1つは、「(現状では)産みたくない」人が「産みたい」、目いっぱい譲って「産んでもいい」と思うようになるのはどのような状況になった時か、という思索ルート。
・現実に、出産は産む女性個人の意思に決定権がある。どんなにパートナーや親や親族が産んでくれと頼んだところで、本人にその気(ほだされた結果も含め)がない限り、産むわけがないし、他人が強制して産ませることも当然不可能である。
・移民による少子化対策には反対。というより、多数の移民を受け入れてまで人口を増やす必要を感じない。それならば人口が減っても維持できるように社会構造を変えて、小さいなりに安定した国にすればいいと思っている(もともと小さいんだし)。高齢者が多いといっても、30〜40年をこらえれば、高齢者人口も減りだす。
・むしろ少子化で問題だと思うのは、前の記事で書いたように、産みたい人が産みにくい社会構造になることである。産みたい人だけ産めばいい、という世の中になると、産みたい人は自分で産みたくて産むのだから、その分社会で不利になったり、経済的に困窮したり、精神的に苦労したりすることになっても、自分の選択の結果だから甘受せよ、という考えが大きくなる。育児支援や子どもの暮らす環境も悪化する。「産んだやつはばかだな、産まないほうがずっと楽だしいいのに」と思われたり「いまどき子どもなんて邪魔なだけ、表に出てくるな」といわれたりする風潮すら出てくるかもと危惧。
・思索の落としどころのもう1つは、出産年齢の女性に産んで欲しいなら、それ以外の立場の人は、彼女らをどのようにしたらその気にさせられるか、を考え実行しなければ、打開はありえない、ということ。そういう面から見たら、柳沢大臣の発言は明らかにマイナスの作用であった。
ご機嫌をとるのか。叱咤するのか。哀願するのか。兵糧攻めにするのか。飴を与えるのか。
北風か。太陽か。
・さらにもう1つの落としどころ。「まあ産んでもいいかな」「なんとなく子どもは欲しいな」というような、「なにがなんでも産む」という決意でない人が、ハードルを感じずにさらっと産める。それが理想なのだと思うのだが。
まだ続く。
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【追記】(2007.2.10)
・そういうわけで、伝統的家族観の尊重を唱えることは、少子化への大きな圧力の一つとなっている。特に、母親は仕事には出ず、家にいて子どもの世話をするべきである、という考えはもっとも大きな圧力である。伝統的家族観を尊重する意識が出産年齢の女性の中に濃くあればあるほど、仕事と出産の両立を否定し、出産をやめて仕事に専念する思考が生まれやすくなる。
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【追記】(2007.2.12)
思考が拡散しすぎたため、しばらく続きを考えるのを中断。しばらく置いて発酵させる。