深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「キモイ」は受け付けない

http://d.hatena.ne.jp/Marumameko/20061221/p1
私も「キモイ」という言葉は大嫌い。「ウザイ」「嫌い」「ダサい」などは普通の言葉に感じるけれど、「キモイ」だけは受け付けない。
まだ「この模様キモーイ」などのように無生物に使うのは我慢できるが、人間を含む生き物に対して使うのはもう絶対許容できない。
どうして?と聞かれると説明は難しい。生理的嫌悪感と言ってしまえば簡単だけれど、「キモイ」というのは単なる言葉なので、その言葉に対して嫌悪感を感じるようになんらかの学習が自分の中で行われているはずだ。
ここは深く考えないで書く場所なので、深く考えるのはやめにするが、浅く考えた範囲では、「キモイ」という言葉の含有する絶対的拒否の響きと、その響きの強さに対してあまりに軽い語感であることのギャップが嫌なんだろうなあと思う。


例えば、「ウザイ」は、言葉の中に「近くにいると」という限定的意味合いを含有している。目に入らなければ、別にウザくもない。
「ダサい」は単なる外見的評価であって、これを言われたところで、がっくりはしても、内面的危機に陥る人はほとんどいないだろう。
「嫌い」は、言った人の主観である。つまり常に「私は」という主語を含んでおり、このために「ウザイ」同様、限定的な意味合いとなる。
対して、「キモイ」は、そういった限定的意味合いを含まない。「キモイ」の使い方は、「私はあんたをキモイと思う」ではなく「あんたってキモイ」なのだ。
つまり、言う相手の存在そのものを根底から否定する意味合いが強い。あんたがどこにいても何してても、あんたという存在自体がキモイ、という。
しかも、どうしてキモイのかは、まず説明されることはない。もともと「気持ち悪い」と感じる理由が極めて主観的で感覚的なものであるから、なぜキモイのか説明すること自体が難しいのだ。


もちろん、自分の若かった時代にも、「キモイ」に類する感覚はあった。
私自身は、「気持ち悪い」ではおどろおどろしすぎると感じたときは、「気色悪い」を使っていた。これは、自分の感覚の中では、「気持ち悪い」ほど根源的な否定の響きはないと感じている。


もうひとつ、「キモイ」が嫌な理由は、「肝」を想像させられるところ。どうもあのレバーとか人間の肝臓の、小豆色でぶよぶよして、そのくせつやつやして断面は血管の断面の穴がいっぱい開いてて、食べると妙にぶにぶにしてる食感。
まさに気持ち悪い。無生物だから遠慮なくキモイって言っちゃう。生きてる肝臓は全然気持ち悪くなくてむしろ綺麗なんだけどなあ。生きてると身体の一部だからかなあ。