子どもはほんとうに寂しいのか
このような記事に行き当たった。
この記事を読んで、なにか気持ちがもぞもぞする、納得できない思いがした。
しばらく考えていたら、もぞもぞの原因は2つあることに気がついた。
1)子どもは本当に寂しがっているのか。
2)子どもは寂しさを感じてはいけないのか。
1)に関しては、記事の中で、あくまでこの記事の著者が、たまたま見かけた子が寂しそうに見えた、寂しがってるんじゃないかと思った、という主観の話である。
子どもが一人ぼっちで暗い部屋の中にいたならば、それは寂しいだろう。が、そこは保育園である。保育士さんが一緒にいてくれる。
保育士さんなんて他人だから親の代わりにはなれないって?
それならば、そこが保育園ではなくて、例えばお祖父ちゃんの家に預かってもらっていて、祖父母と一緒に待っているんだったらば、やっぱり寂しそうに見えるだろうか。
祖父母ならば血縁者だからそんなには寂しくないって?
それならば、現代ではあまりないことではあるが、乳母や住み込みのお手伝いさんと一緒だったらどうだろう。やっぱり寂しいだろうか。
子どもにとって誰が一緒にいて嬉しい人なのかは、それぞれだ。保育士さんだって、毎日長い時間一緒にいれば、子どもにとって近しい存在になる。
もちろんお母さんが一番、これはおそらくたいていの子どもがそうだ。が、一番の人以外にも、好きな人がたくさんいる。これが子どもにとっては本当に幸せなことなんじゃないかと、私は思うのだ。
この人の論調は、あまりに、母親以外の周囲の人の存在の重さを軽んじているように思う。むしろ、もっともっと母親以外の人が育児に関わって、母親だけが育児の重さを背負わなくてもいいようになること、母親がいない時があっても他の人の存在が子どもを寂しさから救ってくれる状況になるくらいのことが、ワーキングマザー以外にも必要だと私は思う。父親も育児に参加、などと言われるようになっているにもかかわらず、今の育児は、数十年前に比べて母親偏重主義になりすぎている。
それに、お母さんが来てくれないならばともかく、時間になれば必ず迎えにきてくれて、そのあとは一緒に時を過ごすのだ。一緒にいる時間は短くても、濃い時間を過ごせばいい。夜はお休みに間に合わなくても、朝に会えばいい。休日にはゆっくりと一緒に過ごせばいい。
時間の長さだけが家族の絆を決めているのだと考えているならば、それはやはり偏った考え方だと思う。一緒にいる時間だけは長くても、絆が育たない親子も現実に多数ある。そのうちのいくつかは明らかな虐待につながる。
8時半まで待っていた子のお母さんが、保育園に迎えに来た時をもし見ることができたなら、子どもの嬉しそうな顔だけでなく、母親の幸せそうな笑顔も見ることができたに違いない。
母親から見捨てられて寂しいのと、一時的に距離が離れているから寂しいのとでは、「寂しさ」の内容は全く違う。
前者の寂しさは当然与えるべきではない。が、後者は?
というところで、話は2)のことに続くのである。
が、2)については、長くなったので、項を改めて明日にでも書くことにする。