深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「育自」という言葉

「『育児』は『育自』」という言葉が嫌いだ。
子どもを育てることによって、自分自身もまた変わって成長してゆくものである、という主旨は諸手を挙げて賛同する、というか、全くその通りだと思っている。
が、「育自」という字面が嫌いなのである。
「育○」という単語において、「育」は「(自然に)育つ」という自動詞ではなく、「(対象を)育てる」という他動詞として働くことが多い。例えば、「育児」以外にも、「育種」「育毛」「育英」など。
このため、「育自」という単語を見ると、とっさに「自分を育てる」と読んでしまうのだ。
ここで、私は引っかかってしまう。育てるのは、誰?
普通に考えると、育てるのは自分自身だろう。「子どもに育てられる」という言い方もあるが、これは現実には、子どもとの関わりや子育てという行為を通じて自ら成長する、ということであり、子どもが親の世話をしたり導きをしたり、ということではないので、あくまで比喩的な表現である。
やはり、自分を育てるのは自分自身、ということになる。
この「自分で自分を育てる」という語感の不遜さがどうも引っかかるのである。
「育てる」は言葉の意味合い上、多かれ少なかれ、上から下へ、というニュアンスを含む。自分で自分を育てる、なんて、そんな自分はえらそうなもんじゃない、他の方から育てていただくならまだしも、自分の能力や理解の範囲で自分自身を育てていくなんて、そんなことできるわけない、自分自身でできる範囲、わかる範囲で成長していくことはできるだろうけれど、それは「育てる」なんて不遜なものではない。
と思ってしまうのだ。
だから、「『育児』は『育自』」という言葉は、気色悪く感じてしまう。