深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

曖昧でいい加減でいたい

私はね、ある程度、曖昧でいい加減な人間でいたいと思ってるのよ。
この間言ったこととちょっと違うこと言ったり、でも前に言ったときは本当にそう思ってて、今は今言ったことを本当にそう思ってるんだし、どっちも違ってないんだけど、っていう人間がいいなぁと思ってるのね。
もちろん、仕事だとか子どものことだとか、家のことだとか、そういい加減ではいかん分もあるので、そういうところはちゃんとするようにするんだけど、まあどっちでもそう困るわけじゃないよとか、どっちも間違っちゃいないよ、とか、そういうことに関してはけっこう曖昧な自分でいたい。
なのだけど、言葉を使うと、途端に曖昧さが減ってきて、だんだんと細かく突き詰めるようなことになってしまって、なんだか思う方向と違うことになってしまう。
「あれとって」では通じないから「テーブルの上のお皿とって」になるけど、それでも通じない場合には「台所のテーブルの上にある青くて四角いお皿とって」となる。それは言葉しか使えない場ではやむをえないこと。「あれとって」では冷蔵庫のお茶をとってこられても文句はいえない。でも。
言葉を使うのって、自分の思いとは別に、自分をがんじがらめに縛ってしまうところがある。テーブルのお皿のようにはっきりしていて他にないのもならよいのだけれど、もともと曖昧さを含むものについては、どうなんだろ。
言葉で表現することで、曖昧さを厳しく切り取ってしまうところがあって。
だからといって、曖昧さをわざと多く残しておくと、今度は全然伝わらなかったりして。言葉って伝えるためにあるものだから、全く伝わらない言葉を使うことは、言葉を使う意味があるのかどうか、なんてことにもなってしまったりして。
言葉を使いながら、硬く細かく分け入るようなやり方でなく、薄く拡がるようなやり方をしてみたいと思うのだけど、なかなかそんなやり方は見つからない。
ネットの上では言葉がやはり優位だから、余計、気になっている。