深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「予後不良」という言葉がこわい

私は、「予後不良」という言葉をきくと、なにかこわくてどきどきしてしまう。
これ、医療用語じゃなくて(医療用語にもあるけど)、競馬用語のほう。
医療用語の「予後不良」は読んで字のごとく、予後がよくない、という意味。病気などの経過で、いわゆる不治の病とか、治療困難でいずれ死に至る、という意味。
これが競馬用語になると、ずばり死を意味する。自然死ではなく、殺処分。
もともとは、大きな故障や病気のため、予後不良の状態になったとき、そのまま生かしておいても馬の苦しみを長くするだけなので、安楽死させる、ということからきている。


どこがこわいかというと、もともと「予後不良」は医療用語のように経過がよくない、ということを示すが、それでも即死してしまうような状況ではないわけだ。最終的には死に至るとしても、そこまでの時間をどう過ごしていくか、そこまでの時間で何をするか、という話に今度はなってくる。
が、馬の場合そうはいかなくて、予後不良=即座の死、死そのもの、ということになる。そのショートカットぶりがこわくなってしまう、というか。
いやいや、馬の場合はそう処分されてやむをえない、という事情は、十分に分かっているつもり。有益のために飼われている家畜である以上、経済的理由にも左右されるし、こうなるのはよほど苦痛を伴い遠くない死が確実である場合だけだし。


どうしてこわく感じるのかな、とさらに考えてみると、こういうことらしい。
新聞記事などで、「予後不良となった」と報道されるけど、その先がないからだ。
予後不良となり殺処分された、と書かれるなら、別にこわくない。しかし、予後不良となった、で文は終わる。もちろん、予後不良=殺処分であるから、話は通じている。でも、唐突に話が途中で終わってしまって、「あとは……言わなくてもわかるよね? 想像つくよね?」と言われているようで、なにか「そうなったら当然殺される、と思ったのはあなたよ? ここにはそんなことは書いてないからね」と言われてるようで、とんと突き放されたようで、でもって、そこで殺処分を瞬間に想像してしまう自分こそが実は残酷で悪いことをしているような気になって、なにかとても不安な気持ちになるのだ。


昔、ライスシャワーだったかサイレンススズカだったかがレース中に倒れ、そのまま予後不良となったテレビ中継をたまたま見ていた。
テレビの中では、その言葉がまさに使われていた。そして馬を悼んでいた。誰も、死んだ、殺された、とは言わなかった。ただ、予後不良と。
あれ以来かもしれないな。