深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

子どもの「なぜ」と大人の「何故」

suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味
こちらを読んで、ふと思ったこと。


子どもはやたらに「なぜ?」「どうして?」と言う。
子どもにとっては、世の中にはどうしてだか、なぜだか分からないことがたくさんあって、それを知りたいと思うからだ。それは他人の心理や行動に対しても同じことで、「どうしてお母さんはこう言ったの?」「どうしてお父さんはそうするの?」ということをあまりタブー感なく言う。
やがて、いろいろなことを学習して、ものごとの仕組みや理由、からくりが分かってくると、「なぜ?」「どうして?」が少なくなる。一つには、分からないこと自体、身近な範囲では少なくなってくるということ。もう一つは、自分がすでに知っていること、分かっていることを材料にして、今分からないことを推察したり考察したりして、自ら「分かる」ことができるようになることがあるのだろう。
と同時に、周囲の観察をすることができるようになる。自分の周囲の人間が「なぜ?」「どうして?」と頻繁に他人に質問しているかどうか判断できるようになる。すると、なんでもかんでも質問する者はあまりいないことに気がつく。なんとなく、なんでもかんでも他人に聞くことが恥ずかしくなってくる。これが「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉にこめられている。聞くのも一時とはいえ、「恥」なのである。


したがって、大人になると率直な「何故?」はあまり聞かれなくなる。
気軽な会話の中は別だ。「私こないだ○○行ってきたの〜」「えー、なんでぇー」とか、「どうしてそれ買ったの?」とかいうような。
しかし、正面から単なる質問として「何故そういうことをしたの?」「何故そう思ったの?」という言い方をすることは稀だ。大人にとって、大人から投げかけられる正面からの質問は、それだけでぎくっとする、あるいはどぎまぎするものなのだ。
大人の「何故」は、どこか重い。「何故」と気軽に言わない者が、あえて「何故」と問う心理を咄嗟に想像してしまうからなのか。
逆に言えば、「何故?」と気軽に言う(と既に分かっている)人から言われるのであれば、あまり気にしないだろう。それは子どもの「なぜ?」と大して違わないからだ。
実は気軽な会話の中の「なんでぇ」「どうしてぇ」が気にされないのも同じ理由で、気軽な会話の中で使われるそれは、ちょっとした相づちにすぎないことを、言う側も言われる側も分かっている。


大人の「何故?」は、言う側は子どもの「なぜ?」と同じつもりで言っていても、言われる側は往々にして大人の「何故?」として受け取る。わざわざ「何故?」と言うからには、なんらかの意図があるはずだ、と思うのだ。赤の他人が自分の何かに対してそんな真剣に興味をもつとは思えない。ならばどんな意図なのか。
「何故ですか」を否定としてとることもある心理には、そんな部分もあるのかな、と思う。
自分は否定とはとらないけれど、「何故ですか」と正面切って問われれば、ぎくっとする。特別自分の中で理路整然とした理由もなく、また、そういう理由が必要とも思えない場合だったりすると、それでもなにか理由をひねり出さねばならないような気になる。そもそも理由をもたない自分のほうがいけない気になってしまう。
しかし、相手の「何故?」が実は「なぜ?」であることに気がつけば、別にそんなややこしい話ではなくて、なんだ、「いやー、なんとなくです」と答えておけばいいだけの話だな、とわかる。


自分の数少ない経験からではあるが、やはり「なぜ?」をてらいなくぶつけてくる大人は、ほとんどいない。
そして、id:suVeneさんがこの元記事で述べているご自身の「何故ですか」はまさに「なぜ?」なのだろうと、私は解釈している。