深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

私の見ているあなたは、あなたではない何か

生きて暮らして他人と接していれば、他人に対して、勝手に自分の思い込みや思い入れを重ねてしまうことはどうしてもあるってものだ。程度の差はあれ。
しかし、その相手と何度も接していると、そういった自分の思い込み、思い入れは実際のその人とは異なっている、違っている、ということに気づくこともまた多い。
大抵の場合は、そこで、ああ、そうか、私が勘違いしていたんだな、勝手に思い込んでいたんだな、と思って、自分の中での「その人像」を修正する。何度も微修正しつつ、関係が続いていく。


どうして自分の思い込みと違うと気づくか、というと、これはけっこう細かい状況の積み重ねだったりする。
日常の生活の中では、面と向かって議論するとか、意見交換するとかいう機会はあまりない。むしろ、なにげない普通の会話の中で「あ、この人こういう人なのか」と気づいたり、ちょっとした行動や表情で「こういう時はこういうふうに思う人なんだな」と思ったり。そういう小さな事柄で思い込みを修正していく場合のほうがずっと多いように思う。
この場合、小さなちょっとしたことなので、修正の機会はとてもたくさんあるし、極端に言えば、いつでも、日常的に、ある。修正している、と意識的には感じていなくても、実は大抵の人はしょっちゅうやっていることだ。


ネットでいろいろな文章を読んでいると、やはり文字だけでの接触ではこのあたりがかなり違うんだろうなぁ、と実感する。
普通に普通の会話をしているだけでは、なかなかその他の情報は入ってこない。普通の会話だけでは、ある人間像を形成する、あるいは変更するには情報量が足りない場合が大半だ。それでもチャットに近いものだと、比較的生のその人の反応に近いものと接することも可能なので、人間像が変わることもあるが、きちんと構成された文章、他人に読まれることを前提として書かれた文章は、既にそのあたりの情報を削減していたり、または異なる情報を強調されていたりするもので、日常、生活の中で接する場合と比べると、前提条件の差が大きい。


そして、一旦形成された「その人像」は、なかなか変わらない。
変わらないから、次に違う文章(情報)が提示されたとき、「その人像」に合致するように解釈される。ネット上での文章は、整理された文章であるがゆえに、多彩な解釈が可能で、同じ文章に対してもどのように読み手が補間するかによって、それぞれの読み手によってまるっきり逆の意味をもつことさえある。そして、「その人像」を変えるどころか、むしろより強固にする方向に働く。


リアルの生活でも同様のことは起こりうるのだが、ネットがそれと決定的に異なるのは、細かい修正の機会が少ない、ということなのではないか、と思う。
例えば、あるエントリを書く。それに対して反論や感想やその他の意見がくる。その時、それを修正したいと思ったら、できることは、さらにそれに対する反論しかない。「そうじゃないんだけどな」と言ったところで、誰も納得はしない。
リアルなら、ある程度互いの関係が続く間柄ならば、「そうじゃないんだけどな」とつぶやいて、放っておけば、たいがいなんとかなる。「そうじゃない」ことを面と向かっての反論以外で相手に伝える機会と手段が多々あるからだ。


リアルがいいか、ネットがいいか、という話ではなく、それぞれの特性があって、そのことを自覚しておくかおかないかで、自分のスタンス、自分のやり方を考えるときに役立つこともあるかもなぁ、という、自分のための頭整理話。こういうの書かないとすぐ忘れちゃうんだよなあ。忘れても困らないから忘れるのかもしれないけど。
自分は現在書き手であると同時に読み手でもあり、どっちかというと、読み手としての自分のあり方に役立つかもしれないなあ、と思ったり思わなかったり。