深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ネット偶像(アイドル)

ネットで文章を読みながら、無意識のうちに、その文章を書いた人物に対して、思い込みや思い入れをしていることは、珍しくない。もちろん私も。
ネット上ではその人の断片的情報、しかも往々にして偏った情報しか得られない。その情報から、その「人」はこういう人なんだろうな、と想像するのだが、実のところ、それは読み手の思い入れの投影になっている。足りない情報の補完は読み手側が行っているわけであって、ということは、その情報の出所は、読み手自身の頭の中である。
大抵、読み手は意識的にではないにしても、そこに自分の見たいもの、読みたいものを投影している。ときにはポジティブに、ときにはネガティブに。


ネットに文章を書くことは、常に誰かの思い入れの受け皿、鏡になる可能性がある。それはボジティブなものばかりではなくネガティブなものであることも多々あり、また、ポジティブでさえあれば喜ばしいかというと、そういうものでもない。
ネットに書いた文章は、その時点で誰かの「もの」になる。ときに、あるいはしばしば、その裏にある書き手の人格も含めて。
文字通り、ネット上の偶像(アイドル)には誰でもなる可能性がある。実生活よりははるかにそうなりやすい要素が、ネットにはある*1。たった一人にとっての偶像かもしれなくても、それでもそのようになってしまったとき、誰かの投影を受け取る偶像としての「自分」を自分自身から引き離して置く技量がないならば、そのような状況に陥ったとき、ダメージは大きいかもしれない。

*1:これについては、忘れていなければまた別の記事に書く。今日は時間切れ。【追記(2007.11.30)】→こらちに書きました。http://d.hatena.ne.jp/azumy/20071130/1196393577