深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ごく私的に理系・文系について考える

理系女子関連の話が盛り上がっているのを見て、そういえば理系/文系の分け方のポイントってどこだろう、と思い始めた。
どうも人によって文理の分け方の基準というか条件はけっこう違うようだし、そもそも分類自体が意味ないじゃん、という意見もそうだよねぇ社会に出たら関係ないよね、と納得するし。
自分の中では、まあようするにその学部の入試に数学(私の頃は微分積分の有無がポイント。今はどうなんだろ)や理科2教科以上があるかどうか、がひとつの分け方だなと思っていて、つまりそれは自分の在籍した高校の「理系クラス」選択の基準なのであった。よって、分類上は文系だけど入試に微積があったり理科があったりするなら、理系クラスに入っておかないと高校の授業では選択できません、というカリキュラム上の都合があって、文系学部(経済とか情報とか)志望だけど理系クラス所属、という人もまあまあいたりした。でもそういう「文系だけど理系クラス」の子と、理系クラスで理系学部志望の子の間になにか違いを感じたかというと、まあ率直に言って、なんにも感じなかった。
理系と文系の違いって、まあその程度のものかしら、というのもまた自分の実感。


などと考えていくと、理系文系の分類は大学入試の都合であって、実際の学問それぞれをみていくと、そう単純に分けられるものじゃないような気がしてくる。
よく言われるのでは、医歯看護系は理系に分類されるが、いわゆる理系とは違うよね? という話。それはわかる気がするが、じゃあ“いわゆる理系”ってなんだろ、となる。


理系的発想というのはあるような気がする。
理系的発想というのは、自分たちが何か考え出す以前に、まず人間の力の及ばない自然の存在や法則がある、という発想。それを解きあかすなり、利用するなり、整理して公式・法則化したりすることはできるが、自然の存在や法則そのものをねじ曲げることはできない、という発想。
いつも自分の思うままにならない大きな存在と対峙していて、絶対自分がそれを凌駕することはありえないんだが、その一部なりとも理解したり、ほんのちょっと自然の力を借りてなにかを実現したり。相手があまりに大きな存在だから、「お前が譲ればいいんだろ」とか「そこちょっと手加減してよ」とかは言えない。理論構築や実験がうまくいかなければ、それはその大きな存在から「それは間違い」と×をもらったってことで、ただ従容としてやり直すしかない、という。
それってつまり(自然)科学的発想ってことじゃん、と思われるだろうが、理系の学問は自然科学を相手にするから重なるのは当たり前といえば当たり前かなあ。
でもって、文系の学問でもそういう発想がある学問はあると思う。そうでない学問もあると思う。そうでない、というのは、はっきり×をもらうことのない学問、というか。論争によってある結論に収束していくことはあっても、人間ではない他の存在から「それは間違いです。こっちが正解です」と言われることはない、というか。


ごく私的だけど、理系/文系の分け方としては、そんな感覚がある。


話はかわって。
大学入試の都合で、と書いたけど、そのあとで、高専の存在に気がついた。大学関係ないじゃん。
高専は短大〜大学レベルの学問までを含めた課程で、かつほとんどが工業系。理系女子ということでいえば、中学卒業時点で先を見通して高専へ進学する女子は、それこそ筋金入りの理系女子かもしれない。


【追記】(2007.11.13)
すごく肝心なこと書いておくの忘れていた。
理系女子というくくりで一番私が憧れるのは、天文女子なんですよ。宇宙飛行士になりたい、というタイプよりも、ひたすら望遠鏡を覗いて新しい小惑星を発見するのに趣味の時間を費やすようなタイプに。いやもう、好みの問題なんですけど。太刀打ちできない何かを感じる。太刀打ちする必要もないんだが。