深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

おばさん関連のメモ

http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071105/1194266672
「おばさん」に関する話の続きだが、こちらを読んで、あ、それそれ、と思ったことがあったので、メモとして。
まだまとまらないメモなので、トラックバックは送りません。

さて、内実はジタバタなのであるが、表向き「♀やめました」を宣言するとしたら

それは一体誰にどんな効果を期待して言うのだろう?

おばさんであることと女を捨ててることは何が違うのだろう?

それらは「かわいい」とどういう関係にあるだろう、、、ということでもこれから考えてみたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071105/1194266672

その1。
「おばさん」になる=女をやめます、ということだととりあえずすると、その方向は自分自身に対して、と、他者に対して、の2つのベクトルをもつ。
現実には、他者に対して「私、おばさんになりました」とわざわざ宣言する場面はあまりない。なにかの話の流れで「もう私もおばさんだし」と言うことはあっても。
話の流れで「もうおばさんだし」と言う時は、それ以前から「自分はもうおばさんだなー」となんとなく(意識的にではなくても)感じている心理が先にある。そうでなければそういう言葉を出すことに抵抗があり、その必要もないところでわざわざそう言うことはないはずだから。
もし、自分自身ではまだおばさんではない、とはっきり感じていながら「もうおばさんだしね」と口に出すことがあるならば、それは戦術的なものではないかという気はする。例えば、「なになに、まだまだいけるよ」という言葉を期待しているとか。あるいは、あまりその場では女扱いされたくない(セクハラっぽい場とか?)ときに「もうこっちはおばさんなんだから、やめて」というメッセージとして出すとか。
もうちょっと掘り下げるとまだいろいろありそうなんだが、ちょっと頭が回らないので今日はここまで。


その2。
もう自分はおばさんだ、女として扱われる必要はない、と感じてはいても、かわいくありたい、という感覚をもつことはけっこうあるような気はする。
「かわいい」は子どもや無生物相手にも使われる概念だから、「おばさん」であっても「かわいく」あることは可能なわけだ。
しかし、この「かわいくある」が他者に向けて放たれるかというと必ずしもそうではなくて、というよりも、自分自身に向けて「かわいく」ありたい、という感覚がけっこうあるような感じがするのだ。
自分自身から見て、どんな自分が高い評価になるか、ということを考えると、女として評価が高い、もっとベタに言えば男性からモテるタイプであることや、あるいは良妻賢母的なタイプであることよりも、「かわいい」自分のほうが評価が高い、という場合は少なくないように思う。もちろん、その逆も決して少ないわけではないが。どちらかが圧倒的に多い、ということはないんじゃないか、というくらいの意味。


女性に限らず男性でもそうなんだが、年老いてゆく過程において、いずれいろいろな人・ものから見放されてゆき、あるいは(死別も含めて)遠ざかり、最期まで自分とともに、自分のもっとも近くにいてくれて、墓の中まで一緒に行ってくれるのは結局自分自身のみなのだ、ということを、どこかで感じているというか、どこかで感じ始めるんじゃないだろうか。はっきりとは自覚しないとしても、死への恐怖や老いへの忌避感というのは、実はそういう内容を含んだものだと思う。
そうして、段階的に「見放されてゆく」過程で、どのように自分で自分に寄り添うか、心理的に他者に寄り掛からないで自分を支えてゆくか、を模索することで、女は「おばさん」になっていく。
というような仮定を考えてみたけど、合ってるかどうかわからない。


男性はどうなのだろう。
自分は男性のことは外部からの観察でしかわからないから推測しかできないが、そもそも「おじさん」になる年齢が「おばさん」になる年齢に比べて相対的に高いのかなあとは感じる。自分の周囲の40代男性を見ても、既婚で子どもがいる人でも、あまり「おじさん」になっている感じがない。それでも、50代くらいになると「おじさん」だな、という感はある。女性は早ければ30代、遅くとも40代には「おばさん」になる人が多いのに比べるとやはり遅い。
女性の場合、一般に50歳前後で更年期・閉経を迎えるのに対し、男性の50代はまだ性的に十分活動期であると考えられていることとも関係があるのだろうか。
男性と「おじさん」の関係についても読んでみたいが、年齢層のこともあって、なかなかそういう記事にはあえなさそうだな。