深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

早くおばさんになりたかった

http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071029/1193662554(主にコメント欄)
http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071030/1193745937
こちらを読んで、つらつらと。主に自分語り。


以前、ここでこんな記事を書いたことがある。
「女らしくしたくない」女のとる、もう一つの道 - 深く考えないで捨てるように書く
私は10代の頃から、早く「おばさん」になりたいと思っていた。
「おばさん」になれば、女として競わなくてすむから、と思っていた。
10代女子は、ただ10代女子というだけで、自分の望むと望まざるとに関わらず、女として評価を受ける場に置かれる。容姿のことだけでなく、性格の傾向やいわゆる「女らしさ」、見合いの釣書に書かれるようなこと(家庭的だのなんだの)に対して。これから生殖適齢期に向かう生物としては当然のことでもあるが、そのことが自分は嫌だった。
自分が女として高い評価を受ける個体であったら、あまりそうは思わなかったかもしれない。しかし、そうではなかった。一方、女としてではない部分、男と共通の部分では、それなりに高い評価を受けられる個体であった。
それだけに、女でなくなりたかった。自分が女性であること自体は肯定していた。しかし、女性であることによって、自分の価値が下げられる(と自分では感じる)。それは好ましくなかった。
だから、生物学的には女性であるままで、女でなくなりたかった。
そのよい方法は、年老いることだった。
年老いて、おばさんになる。そうすれば、生殖には適さない個体となり、女としての評価は無意味となる。無意味だから誰も女として評価しようとはしなくなるだろう。そのときやっと、晴れて女としての評価という軛から逃れ、男とか女とか関係ない人間という立場になることができるんだろう。
そんなふうに思っていた。


やがて本当に歳をとって、おばさんになった。というか、なってきた。どこで「おばさん」と「女」の線をひくかは難しいところで、実際にはまだらになっている*1ものだから、おばさんになった、と断言することはできないか。
おばさんになってきた感想としては、ホッとしている。私、無理して女しなくてもいいんだね、という、肩の荷を下ろしたような解放感と安心感。
走るのが苦手なのに、ずっと「みんな走ってるんだからお前も走れ」と走らされ続けてきて、やっと「もう走るのやめていいよ」と言ってもらえたみたいな、そんな感じだ。


たぶん、女として評価されることが得意な人、女としての評価が高い人、女として評価されることが気持ちよい人にとっては、いきなり「もうやめていいよ」と言われても納得がいかない、というのはあるんだろう。
プロ野球で、余力を残してすぱっと引退する選手がいたり、名の通った選手なのにぎりぎりまで現役を続行して最後は自由契約任意引退になって消えていったり、かと思えば40過ぎてもバリバリ現役で活躍する選手もいたりする。
自分の中では、上にも書いたように、「おばさん」になることは女(女性ではなく)を引退することに近い感覚があって、評価される女としての能力(若さも含む)が減退してくれば、どこかで自分が好むと好まざるとに関わらず事実上の引退がやってくる、と思っている。歳を重ねても若々しく美しい人もいるが、それはあくまで若々しいだけであり、若くはない。女性だから【追記(2007.10.31):削除線追加】何歳になっても美しく装いたい人、実際に装って美しい人もいるのは当然だが、そのことと女として評価されることはまた別の話だ。


プロ野球を引退したら、もう一切野球はやらない、ってわけではない。草野球でもなんでもやればいい。すごいね、強いね、とは言われないかもしれないけれど、楽しくプレイすることは十分可能だろう。もちろん、もう一切野球をしないことも可能だ。
「おばさん」になったらばこそ、自由にできることもある。

*1:例えば、夫の前では女、とか、逆に夫の前では女じゃないけど外では女、とか。いろいろある。