深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「裏表」の意味するところ

先日「裏表のない人」という記事を書いた。
書きながら、裏と表っていったいなんだろう? と考えていた。
あの記事には多くのコメントやブックマークコメントをいただいたり、関連して言及いただいたりしたが、やはりそれぞれの方によって「裏と表」とは何であるか、受け取り方が少しずつ違うようだった。


私のイメージでは、「裏表がない」というのは、対する相手によって言を翻さない、という感じだ。
例えば、Aさんと一緒にいる時にはBさんを評価して褒めるけれど、Cさんと話している時はBさんのことをひどく貶す、というのが裏表のある言動。そんなイメージ。
しかし、先日の記事の内容をつらつらと考えながら、単に「裏表がある/ない」と言うときは、もうちょっと違う意味で使われることもあるんじゃないかな、と思い始めてきた。
例えば、Aさんと一緒にいる時はとても愛想よく楽しく話しているのに、実はAさんのことは嫌いで、Aさんのいない場所ではAさんを貶している、なんていうのも「裏表がある」うちに入るかもしれない。
相手が目上だと媚びへつらうが、目下だと急に馬鹿にした態度で接する、というのを「裏表がある」と表現する人もいそうだ。
これとは別に、「表」とは他人と接するためにコミュニケーション向きに態度を作っている自分、「裏」は感情渦巻くどす黒い面もある自分自身、というとり方をする場合もありそう。


どのとり方にしても、「裏と表」は、人間が人間と接するとき、必ず多面性をもつ、という事実を表しているように思う。
1枚の紙の裏表ならわかりやすい。しかし、球の場合、どこに裏と表があるのだろう。月の表面のように、今見えているほうが表、見えていないほうが裏か。しかしすこし角度を変えれば、また別の面が表になり、裏になる。またさらに変えれば、また別の面が。
自分の今見ている面が「表」だと感じがちだが、そこは別の人から見たら「裏」だったり、一部しか見えていなかったりする。一方、自分でこれが自分の「表」だと思っているところを実は他人は見ていなくて、別のところをその人の「表」だと感じているかもしれない。
表だの裏だのくっきり分けられるわけもなくて、まさに表裏一体。裏表があるのないのと言うこと自体があまり意味がないのかもしれないなぁ、と、あの記事を書いてみて行き着いたところだった。
ただ、意識して「裏」と「表」を作ろうとしている人はやっぱりいるかな、という感じもある。