深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ダークライに萌える、萌えまくる(ネタバレあり)

20年以上ぶりに映画を見に行ってきた。
見てきたのは「ポケットモンスター ダイヤモンド・パール ディアルガvsパルキアvsダークライ」。ようするに今年のポケモン映画。ようやく映画を見られる年齢になってきた娘たちと、前売り券でもらえるデオキシスと映画館でもらえるダークライのためだ!
以下、ネタバレありのため、「続きを読む」モードで。萌え暴走モードになってます。


とりあえず、これは、テレビでなく映画館で見て良かったポケモン映画だった。ダイナミックな戦闘シーンやパニックシーンが多く、また物語のクライマックスで音楽が大きな意味をもつため、画面が大きく音響効果の高い映画館で見るほうが、テレビなどで見るのと比べると断然作品が生きる。
ストーリー性は少な目で、どちらかというと、ディアルガパルキアの激しい戦いと街の滅び、そして復活をメインとして見せている映画だったように感じる。ディアルガパルキアがなぜ戦っているか、という説明は一切ない。そのぶん、「神」*1という存在の遠さ、「神」には人間の理解できるような理由は何一つ必要ない、ただ戦い、それによって街や人が滅ぶことも思いを寄せることもない、というプリミティブな神性あるいは獣性を表現するものだった。子どもが見てもそのへんはあまりピンとこないかもしれないが、いや、むしろ子どものほうがなんとなく感受するかもしれないかなあ。


こういう設定だったので、映画公開前は悪役なのか良い役なのか一切隠されていたダークライの存在が対照的にうつる。見かけや能力は恐ろしげで、実際ストーリーでも当初そういう扱い(人からもポケモンからも嫌われている)だったのだが、実はそういう存在こそが人のそばにあり、人のことを想っているのだ、という思想。
そこをはっきりを表しているのが、ダークライは人の言葉を喋る、という点ではなかったかと思う。基本的にポケモンは人語を話さないとされる。ロケット団ニャースは、非常に特殊な存在として扱われ、後天的に人語を話すことを獲得した話がエピソードとしてある。しかし、ダークライはおそらく習得したものではなく、短い言葉ではあるが、意味のある人語を話す。*2このことは、ダークライポケモンからもやや離れた存在であり、しかしわずかながら人に近い存在であることを表している。
このことが、得体の知れない、ポケモンからも人からもかけ離れた謎の存在としてのダークライから、話の最後ではディアルガパルキアよりもずっと人に近く通常のポケモンにも近い心をもつ存在、人と通じ合う心をもつ存在として描かれる伏線となっている。と思う。


ていうか、萌えです萌え! ダークライ激萌え!
この話、ボーイミーツガールなのだ。もちろんボーイがダークライ。詳しい話はできないが、見れば分かる。
もういじらしすぎますよ、ダークライ。ずっと日陰の人(人じゃないし)だったけど一途に想い、ガール、そしてガールの愛する場所を救おうと、頑張り続けるわけですよ。周りから石を投げられ嫌われ続けても、言い訳することもなく、ただなんとかしてひとり身を呈して危機を遠ざけようとする。可愛すぎます。
とにかくダークライ萌えまくり。
もし「ダークライ 萌え」で検索してたどりついた人がいたら、あなた、私と心のお友達です。こんにちは、もう一人の私。


そしてラストのサラ・ブライトマンの主題歌がまた濃密。
歌自体は英語で、訳詞がテロップで出るのだが、まあそのまま歌詞を読めば男女の愛と別れの歌なんですよ。でも、子ども向けのポケモン映画に男女の愛と別れって‥‥。ダークライと彼女の歌なんだよね。これ。
切ないな。でもダークライは彼女にゲットされて飼われるポケモンには決してならない。ポケモンなんだからそういうことも可能なはずなんだけど、しない。ひとり去って、ただ遠くから彼女を見守ることを選ぶ。‥‥たぶんそういうことを示唆しているエンディング。
個人的にサラ・ブライトマン好きだしな。やられたな。


とりあえず、当面の間、ダークライ様を心の糧にします。

*1:ディアルガパルキアは「神と呼ばれしポケモン」という設定。

*2:昨年のマナフィは映画のラストでわずかに人の言葉を話したが、文章は話せなかった。ダークライは話中で短いが文章を話した。