深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

恐怖と共生するには

人間は、未知の事柄に対して、恐怖を感じるようにできている。
一方、人間は未知の事柄に対して、好奇心を持つようにもできている。
好奇心とは、すなわちそれを知りたいという欲求の表れでもある。知ろうとすれば、知識や情報を集める。
そうして集めた知識や情報が、その物事についてネガティブなものであれば、今度は恐怖だけではなく嫌悪を感じるようになるだろう。ポジティブなものであれば、期待や好感を感じるようになるだろう。
通常は、ポジティブな情報もネガティブなものも両方あるわけで、質・量的に圧倒的にどちらかの情報に偏っているのでない限り、判断は、どちらの情報により強く惹かれるか、というところで分かれることになるのかな、と思う。
このあたりの話は、以前どこかのブログで既に読んだ話のような記憶がある。


恐怖は、生物としてのヒトに必要な防御反応だ。危険を回避し、自分を守るための。
同時に、恐怖は大変な不快である。不快なだけでなく精神的な負担にもなり、ずっと持ち続けることは率直なところ極力避けたい。
恐怖を避けるために知識を集めるが、ネガティブな情報により、さらに次なる恐怖がやってくることがある。ポジティブな情報ばかりを集めてきたとしても、なにか裏があるんじゃないか、と疑う気持ちが消えるわけではなく、恐怖とおさらばすることはできない。


恐怖とは結局一生つきあわなければならないものなのだろう。
逃げられる恐怖なら逃げてしまえばいい。それでも逃げ切れない恐怖が必ず存在する。
お産が怖い。他人が怖い。家族が怖い。孤独が怖い。子どもがどんな危険な目にあうか怖い。就職が怖い。病気や介護。先の見えない人生の将来。国のゆくすえ。隣の国。地球の反対側の国。やがてヒトの住めない環境になるかもしれない惑星。個人のことから、個人ではどうにもならないことまで。*1
未知であっても、知識があっても、結局怖いものは怖い。


恐怖を抱えたままではいたくないから、すこしでも恐怖から遠ざかれるように、改善策を考えてみたり、とりあえず考えるのをすっぱりやめてみたり、時には「もうしょうがないじゃん」と捨て鉢になってみたり。
でも結局は、恐怖は奥歯を噛んで耐えるしかないんだろう。耐える力と技術を強めて。恐怖と仲良くはできないが、恐怖とともに生きることは十分に可能だろうと思う。自分よりもはるかに重く強い恐怖とともに生きている人は世界中にたくさんいるはずで。
今、自分はその時点。恐怖を飼い慣らすことができればいいのかもしれないが、まだその域には達していないかな。というより、そういう飼い慣らしは可能なのだろうか。

*1:この全てに対して私が現に恐怖を感じている、というわけではない。いろいろな人がいろいろな恐怖を感じるだろう、という意味合いでの羅列である。