深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

優れた読み手

よき読み手、優れた読み手という人たちが実はいるのではないか、と半ば都市伝説的に思っている。
文章を読む能力というのがある。識字や速読の話ではなく、ある文章を読んで、文意や文脈を過不足なく理解する力である。書いてある字面そのままでなく、ある程度行間や文脈全体の流れを読み取る。しかし自分自身の思い入れを入れ込みすぎて文章を誤解する、あるいは(無意識のうちに)勝手に自分流にアレンジして解するということはしない。そういうバランスの的確さをもつ能力である。
これを会得するのはかなり難しい。単に文章を多く読み込むだけでなく、言語に関する知識、人間の心理や人間関係に関する豊富な経験が必要になる。


しかし、優れた読み手になるには、そういった読解能力だけではまだ足りない。読解能力だけでは、ただ表現された文章の内容を的確に読み取れる、というだけである。そこにある情報は、書いた人がすでに持っているものにすぎない。
これに加えて、読み取った情報を自分の内部でうまく繋ぎあわせたり比較したり、その他の内部処理をして新たな情報を作りだす、あるいは得る。それこそが優れた読み手に必要な力である。


そんなふうに、あちこちで文章を読んで、本を読んで、人の話を聞いて、自身の内部に豊かな情報を蓄えている人がどこかにいるんじゃないかと想像している。
しかし、必ず優れた読み手である人が、同時に優れた書き手である、というわけではないのもまた事実だろう。優れた読み手であると同時に優れた書き手でもある人は、既にさまざまな方面で活躍されている。優れた読み手ではないが優れた書き手である人も活躍されているだろう。他人の文章を読む(議論やコミュニケーションを含め)のは得意ではないが、文章が上手く書くものは面白いというタイプの人だ。どちらにも特段優れていない、普通の人、平凡な人がもっとも多いだろうが(自分もそのうちの一人)。


優れた読み手ではあるが書くのは得手でない人の中には、どんな素晴らしいものが眠っているのだろう、と夢想する。
いや、眠ってはいない。そういう人は、読んで得たものを自分自身のために十分に活用しているはずなのだ。ただ、それを文章という形で表すことをしない、あるいは上手くできないだけで、既に内部に得てはいるのだから。
芳醇な酒の美味さを他人に伝えることは大変に難しい。吟味された良質の材料を集め、じっくりと熟成されたそれは、一口飲めばその美味さはすぐにわかるのに、言葉でいくら伝えようとしても、的確に伝えることはかなわない。
優れた読み手が内部に抱える情報は、そんな酒のようなものかもしれない。一口飲むためには、その人自身になるより方法はない。そしてそれは不可能だ。


ネットでは、言葉を綴らない者は不可視である。しかし、そんな不可視の読者の中に、巨大な未知の金鉱、誰も知らない美しい花が一面に咲いた野原があるような、そんな夢想をつい、してしまう。