深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ネットで罵倒をみかけたとき

ネット上で罵倒の言葉を見かけると、それを発した人の思いを想像してしまう。
罵倒以外の言葉でなく、罵倒をあえて選ぶ心理、罵倒を表に出す心理がなにかあるのだろうと想像する。その人のその時にとっては、罵倒を使うことにこそ意味があったのかもしれない、と空想する。
相手を憎み忌み嫌っているから、殴りつけるかわりに罵倒をぶつけたのだろうか。
罵倒することによって、相手が傷つき、自分の視野からいなくなることを期待したのだろうか。
相手は関係なく、ただ自分の内心に渦巻く怒りや憤り、その他の名状し難い感情を表に表したいがため、罵倒を選んだのだろうか。
当然、そんなややこしいこととは関係なく、ただ罵倒してみただけのこともあるだろう。
けれど、罵倒は発するだけで随分とエネルギーが必要だ。精神的に沈滞しているときは、どうやっても罵倒は出てこない。ただ、さらに深く沈み黙するだけだ。


時として、強く厳しい罵倒の言葉が、熱烈な愛の言葉のように熱く感じられることがある。
私は罵倒は好まない。自分では原則として使わない。他人から浴びせられることも、まあ普通に好まない。
それでも、そこに含まれる激情の熱さ、硬さ、痺れるような鋭さを感じとってしまうことがある。
繰り返すが、私は罵倒は好まない。しかし、他人の罵倒に、酒に酔ったようなぽーっとした不思議な気分になることがある。ときたま、二日酔いになる。