深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

与える、あげる、やる

http://fragments.g.hatena.ne.jp/b_say_so/20070522/1179801368
こちらの記事を読んで、つらつらと思った。id:b_say_soさんの述べたことからはちょっと脇道にそれた話なので、トラバは送らずにおく。


以前、こんな話をどこかで聞いた。

最近、「(何々を)あげる」という言葉を自分の子どもやペットに使う人が増えているが、本来は「あげる」は謙譲を表す言葉であって、従って目下にあたる子どもやペットに使うのは正しくない。謙譲の意を含めないのは「やる」である*1。これは子どもやペットを「お子様」「ペット様」と考えてしまう人が増えたからではないか。

最後の部分についてはとりあえず置いておいて、「あげる」は「さしあげる」と共通の発祥をもつ謙譲語であることについては、その通りだろう。
これに対して、「与える」は、はっきりと自分(与える側)のほうが目上であることを意味する言葉だ。例えば、職場の上司と部下を想像してみればよい。基本的に、上司が部下に何かを「与える」ことはあっても、部下が上司に「与える」ことはない。
そういう意味でも、「与える」という言葉を自分を主語にして使うことに抵抗がある、という感覚は、わかるような気がするのである。特に、相手との間に明らかな上下関係がない場合には、強い抵抗感を感じるものじゃないかなと。


では、プレーンな意味合いの「やる」を使うかというと、なかなかそうはいかないのも実際のところで。
「やる」というのは、やはりかなりきつい言葉のように感じてしまうのである。特に女言葉としては。「あげる」は基本的には謙譲語なのだけど、女言葉の中では丁寧語として使われる場合もあると思う。
ちょっとこんな場面を想像してみる。誰かがですます調で丁寧に会話している。そんな中で、たまたまこんな言葉が出てきた。「甥っ子が遊びにきたので、そのおもちゃをやったんです」。
話者が男性なら、特に違和感はない。しかし、話者が女性の場合、あまり違和感を感じない人もいるだろうが、ん? と思う人もいるだろう。このあたり、言語感覚の個人差は当然あるが、「やる」はプレーンよりももう少し乱暴な側の言葉に入り、男性ならば違和感はないが女性だとちょっと品に欠ける、という印象をもつ人もいる。そういう人は丁寧語の範疇として「あげる」と使うことがしばしばある。


実はこのへん、「あげる」のもつ謙譲語としての性質と丁寧語としての性質のため、「〜してあげる」という言葉に対する感覚の差が出てくるのじゃないかと、勝手に仮説を思いついた。
「〜してあげる」は、そのままとると「〜してさしあげる」つまり謙譲の意となるが、実際の行動としては相手の意をまたずに相手と関わる行動を決めている、ということになるわけで、自分のしたいことを相手にするだけなのに、なんで「あげる」とか謙譲して自分のほうを目下に置いているんだ、裏表甚だしい! という感覚になるのだろう。
しかし、これを丁寧の意の「〜してあげる」と考えると、言っている側は単に「〜してやる」「〜したる*2」というのを丁寧に言っているだけで、結局自分がしたいことを相手にしようとしているだけで、大した意味はない、ということになる。


話は戻って。
ここまで書けば、「これは子どもやペットを『お子様』『ペット様』と考えてしまう人が増えたからではないか。」なんてのは特に意味がないことがわかる。
もともと「あげる」の意味のほうが変質してきているだけのことなのだ。私も通常「やる」は使いにくくて、「あげる」を使っている。ただし、相手が動物の場合は「ウサギに餌をやる」という具合に言う。しかし「馬に餌あげておいでー」などという使い方もする。


【追記】(2007.5.24)
id:aozora21さんから、こんなブックマークコメントをいただいた。

aozora21 ことば 美化語というらしいですね<あげる http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010713860

そうか! これが美化語だったのか! 先日発表されていた敬語の分類で「美化語ってなに? 丁寧語とどこが違うの?」と夫婦して首をひねっていたのですが(情けない)、なるほどこれが。
このリンク先、大変勉強になりました。ネットってすばらしい。図書館に行かなくてもこういう情報が居ながらにして読めるんですもんね。
ご紹介ありがとうございました。

*1:リンク先記事のコメント欄でid:takisawaさんが述べているのもこの意であろう。

*2:方言的用法かも