深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「自分を語りたがらない人々」追記


自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く
こんなにコメントやブックマークコメントをいただくと思わなかったので、驚くと同時に感謝いたします。
別に大したこと書いてないのになぁ、と思ったんですが、あとから読み返して引っかかったのはここかなと。

以前は、どんな場でもなんとなくROM(read only member)がいることが暗黙の了解だったが、最近のネット環境だと、ブログ・日記にしろ、SNSにしろ、2chのような掲示板にしろ、twitterのようなミニブログにしろ、発信(発言)しない=いないも同然、という感触になっている。

自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く

いないも同然、が、私から見ていないも同然、とも読み取れますね。
そういう意味ではなく、ネット環境全体の中で、発信しない人の影が薄くなっている気がする、という意味でした。
私からみると、自ら意図して発信を避ける知人も多く、そういう人と今後とも長くつきあいを続けていこうとすると、ツールとしてのネットは適さない。しかし、リアルでの知人ならそれでいいのですが、ネットを通してのみの知人の場合、現在のネット上に、そういった人たちとつきあい続けるのに適した場が見つからない、と感じるのです。


リアルでも、一時はとても親しくつきあっても、だんだんと年賀状やら祝い事やらの連絡が減り、やがて途絶えて交際が終わる人がいるように、ネットでもそういうのはあるなあと。ただ、その基準が、リアルに比べるとかなり高いところにあって、リアルでは気にならないような「発信のなさ」でも距離が離れていってしまう感じがする、それは「発信のある」人との距離感がどんどん近くなっていて、相対的感覚として「発信のない」人との距離感をより遠く感じるからではないか。例えば、twitterおよびその類似サービスを使う*1と、そこにいる人同士の距離感が縮まる感じがあり、同時にそこにいない人との距離感が相対的に遠く感じるようになるように。
そんな感じから出てきた話でした。


自分が「自分を語りたがらない」という言葉で表現したのは、自分の内面を表に表現すること全般の話で、いわゆる「自分語り」ではありません。
例えば、なにか食べ物の話を書くときに、食べたものの写真をアップして「メインは○○」「デザートは△△」とキャプションをつけるのは、「自分を語る」うちに入らない。「メインは○○。前から食べたかったんだよねー」「デザート△△はちょっと甘すぎると思った」というキャプションがついたら「自分を語る」うちに入る。そのくらいの基準です。だから、自分の意見を書き記しているニュース・批評サイトなどは、十分に自分を語っていると思います。あけっぴろげに感情をぶつけるだけが自分を語る方法ではないと。
一方、決して「自分を語りたがらない」こと自体は珍しくもないし、批判的に見ることでもないと思います。*2さまざまな理由でそういう方法をとる人もいるし、そういう方法が合っている人、好む人もいるということだと思っています。

*1:チャットやSNSにも同様の傾向はあるでしょう。

*2:「サイトの内容・雰囲気に合わない」などのサイト運営的な理由はまた別の軸の話ですので、ここでは別として。